| 道祖神信仰史の研究 書籍内容紹介 | ||||
| 書籍 表紙画像 | 目次 | |||
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| はしがき p1〜p3 | ||||
| はしがき 日本の宗教は古来より、神社神道、仏教、それに民俗信仰と三本の柱をもって人々の信仰がなされてきた。特に民俗信仰は人々の生活と最も密接な関係にあった。日々の信仰から年中行事、それにともなう儀礼や食事、縁起物にいたるまで、まさに日常の生活は民俗信仰とともにあったといえる。そして喜怒哀楽の中で大きな精神的支柱となってきたのであった。 ところが近年、民俗信仰が大きく衰退し、それに伴う民俗行事もまた急速に姿を消し、垣間見るような状態となった。そうした中で辛うじて残されてきたのが、路傍に佇む石仏、道祖神塔であり、小正月の年中行事であるドンドヤキ(道祖神祭Iサイの神)の火祭りである。 道祖神は一般には境の神・防災の神・旅行の神・子供の神・縁結びの神とされてきた。その発祥は「記紀」にまで遡るとされているが、古代・中世の信仰について書いたものはなく、ほとんど不明である。祭りとして表舞台に登場したのは江戸時代前後と見られ、以降、村々の防災・防疫の年中行事として小正月に大々的に行われるようになった。 一方、道祖神塔は当初常設の防災・防疫神として造立されたとみられるが、やがて社会情勢に即応して性神的色彩の濃い信仰へと変容、多彩な像容の石像が創造された。そして、その造立習俗は江戸時代前期、地蔵菩薩や庚申塔造立の後を受け、二十三夜塔などとともに各地に普及したのであった。ドッドヤキの流布に遅れること五十年か ら百年と推定される。 道祖神信仰は推定40県とほぼ全国に広まったが、道祖神塔の造立習俗は中部から東北地方と山陰地方の20県に偏在しているにすぎない。しかもその内、静岡県、神奈川県、山梨県、群馬県、長野県が抜きんでて多く、全体の90%を占める。その普及過程は太平洋沿岸に起こり日本海の新潟県にいたるという、大河のごとき中部地方横断の旅であった。現存する道祖神塔の推定数は一万六千基近くにのぼる。その像容は他の神仏や石仏には見られない、なまなましい人間模様を織り成したユニークな男女の像がゆえに、石仏の中でも特に人気が高い。 このように、道祖神塔は比較的歴史の浅い石仏といってよいにも拘らず、造立の目的や背景をなす信仰について的確に伝える文献はほとんどなく、また伝播も不確かである。そのうえ祭祀の形態や像容も多様であることから複雑な様相を呈し、その全容は依然として明らかになっていない。したがって、道祖神信仰そのものについてはなおのこと不明であり、その正体は曖昧模糊とした不可解な存在となっている。 問題の一つは、これまで「古代から連綿として守られてきた伝統的な信仰である」とされながらも、現存している道祖神塔にいたるまでの経緯についてはほとんど明らかにされていないことである。つまり多くの研究者が引用する「記紀」や「今昔物語」などに出てくる説話、古代の道祖神塔と言われている陰陽石などの信仰や習俗と、近世道祖神塔やドンドヤキが果たしてつながる一連の信仰といえるかどうか、いまだに結論をみていないということである。その上、道祖神の「境の神・塞ぎの神」については地域的な境界ばかりか、「あの世とこの世」といった時間空間の境にまで拡張され、さらには地蔵信仰との関連にまで及ぶなど、さまざまな方向に向けて理論が展開され、より一層不可解な信仰となっているからである。 こうした複雑な信仰を明らかにするには道祖神信仰の「歴史の解明」や「全容の掌握」をなすとともに、これまで通説や定説となってきた「諸説の検証」をすることであろう。つまり、道祖神信仰は古くは(古代・中世)どのように考えられ、近世にいたってどのように展開したか、である。道祖神研究の根幹はまさにその三点につきる。そしてこれが本稿の研究テーマであり、中核でもある。 そこでこうした難解な信仰を探求し、目的を達成していくにあたり、信仰の構成要素を中心に諸問題の解明にあたった。特に本稿ではその内の信仰対象である道祖神塔がもつ豊かな資料性に着目し、その調査統計の分析かち得られた結果をベースに、多方面からの検証を試みたものである。結果、魑魅魍魎としていた道祖神信仰の実態と変遷の過程がようやく明らかとなり、これまでの疑問や不明であった多くの問題もなんとか解決の道筋が見えてきた。とはいえ、これをもって全てが解明されたというにはまだ程遠い。特に古代から近代にいたる経緯については断片的な資料しか存在せず、十分な成果を上げることができなかった。無念の極みである。 このたび金子昇兵先生のお勧めと名著出版 平氏の激励により本書が誕生することになった。本書によって石仏が歴史学と民俗学を結ぶ貴重な存在であることを認識して頂くとともに、道祖神信仰について関心を深めて頂き、同信仰の研究がさらに進展されるならば、著者として望外の喜びである。 平成士三年九月 石田 哲弥 |
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| あとがき p183〜p185 | ||||
| あとがき 道祖神やドンド焼き(道柤神まっり)と長いあいだ接してきたが、民俗事典などの道祖神に関する記述や専門家の話、各地の郷土誌の記載などにどことなく違和感を抱いてきた。この違和感というのはI体なんなのだろうか。 道祖神塔は近世の初期後半に突如現われ、わずかにして関東甲信越地方を席巻した特異な石仏塔である。それも単体道祖神と双体道祖神という全く異なった姿での出現であった。そしてたちまち大海に大小二つの島を形成したの・であった。「過去とも断絶し、海面ににぽっかりと浮かぶ島、大きな島に上陸してみると、平野部からそそり立つ主要五県の峰々が連なり、その裾野をそのまわりの国々(県)が取り巻いていた。少し外に目をやると、遥か向こうにも小島が一つひっそりと佇んでいた。山陰の三県の島であった・:」道祖神の存在が見えてきてからは、こんな様相を頭に描きながらの道祖神調査の旅であった。その結果、私が抱いていた違和感とは境界や塞ぎの神の観念に支配された理論と目の前の現実が合わないことによるものであったことが判明した。そして、その背後には民俗という「非日常」の世界にさまざまな理論が加わった異次元の想像の世界がいつのまにかつくり出されていたことへの、不信感であったのかもしれない。民俗とは現実の生活に根ざして生まれた習俗であり、厳粛な行為ではないか、と常々思っていたからであろう。 しかし、こと民俗信仰においては一筋縄ではいかないものが多い。特に道祖神信仰の長い歩みはまさに波乱に満ちた歴史であった。教義や儀軌をはじめ、祭りの儀礼、道祖神塔の像容など全てが存在していなかったのである。いわば社会の要請に応える形で生まれた手作りの信仰であった。 それは「全く外部からの文化の輸入という刺激のないなかで、人々はどういう方向に歩んでいくか」I徳川三百年という、世界でも例のない鎖国社会でなされた壮大な実験であったように思えてならない。そうした足跡をたどると、信仰というのは本来「耐えの文化」であったことに気づいた。求めてすぐに得られる保障はなにもない。それでもワラをもすがる想いで信仰し、なけなしのお金を出して石仏塔を造立する。こうした行為はなにも信仰ばかりでなく、当時の政治や社会生活全てにも言えたことであった。厳しい身分制度、五人組、土地制度、鎖国政策などいずれをとっても政治的停滞を意味し、耐えを要求するものばかりであった。 ところが、道祖神塔の変遷を見ているとそうした中においても、じっと周辺の反応を確認しながら、時には大胆に、時には小出しに試みをなす。いわば枠内に蓄積されてゆくエネルギーをゆっくりと練り、時にはさり気なく、また時には一気に吐き出すという、耐えの中の静と動のリズムを繰り返しながら、不自由のなかでの自由の幅を拡大していったのであった。 我々は道祖神塔の歴史を探ってようやく知り得たことは、道祖神塔には二つのはっきり異なった道筋が存在していたことである。 その一つは静岡県や神奈川県の太平洋Gに見られる当初の像容を一貫して維持していく世界であり、いまひとつは群馬県や長野県の内陸Gの像容に見られように限りなき発展を遂げた世界であった。 特に動の世界を演じた群馬県や長野県においてはさり気なく、それでいて大胆な姿態をつぎつぎに産み出していった。太平洋Gと内陸Gの間に情報が決して無かったわけではない。いや、ありすぎるほどあったことがすでに証明されている。にもかかわらずお互いが我が道を守り、独立した道を歩んだ、まさに「静と動」の世界であり、両者をつないできたものが、日頃の欝憤を一挙に吐き出すような激しい勇壮な火祭り、ドンドヤキであったといえよう。 いうなれば頭上の政治には停滞があったとしても、信仰や思考においては一日として停滞はなかったのである。「終章」で民俗学における表層文化と基層文化について語った。結果はまさにその通りであった。 そこで今回得られたことを最後に質問形式、「Q&A」でまとめた。これは道祖神信仰について即席で知るために掲載したのではない。新たなる道祖神研究の旅立ちとして、江戸時代に数学の発展を促した「遺題承継」にあやかって試みたものである。得られた結果を叩き台に、さらに道祖神信仰の研究が進むことを切に祈るものである。 また、本書では、歴史的事実を正しく認識することが、道祖神研究の解明に欠かせぬものと考え、採集した資料は忠実に収録した。 最後になって大変恐縮ですが、感謝とお礼のことばを述べさせていただきたいと思います。今回の調査研究においては膨大な調査資料を駆使させていただきました。その資料や写真、説話文学の分析などは、手間暇をいとわずに調査に打ち込まれた、諸先輩の汗と結晶による賜物であります。そのご労苦にはただただ合掌するばかりであります。特に青木安勝、高島信平、石田益雄、山寺勉など諸先生からはそうした貴重な資料をご提供くだされ、また掲載を快くご了解頂きました。篤く御礼を申し上げます。 また、執筆にあたりましては基本的考え方について、東洋大学教授大島建彦先生から心暖まる貴重なご指摘とご指導を賜りました。心から深く感謝を申し上げます。 なお、このたびの出版に際し、献身的に労を尽くしてくださった金子昇兵先生、さらに出版をこころよく引き受けてくださった名著出版 平裕治氏には大変お世話になりました。衷心より感謝申し上げる次第であります。 平成十三年三月 著者記す |
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| 道祖神に関する Q & A p187〜p198 | ||||
| 番号 | 質問:Q | 回答:A | ||
| 【1】道祖神信仰について (総論) | ||||
| 1 | 道祖神とはなにか | 本来は神名や道祖神信仰を指すが、実際には 道祖神塔などの信仰対象物をさす場合が多い。 | ||
2 |
道祖神信仰とはなにか。 |
道祖神を崇拝する信仰、具体的にはご利益をさす。しかし、実際にはいくつもの構成要素があり、歴史的な変遷も複雑で、現在も多様な信仰形態を持つために、その範疇は明確ではない。 | ||
3 |
道祖神信仰の構成要素とはなにか。 |
本書においては、古代、中世の説話文学にある古典説話や文献、今日ある伝承や説話、ドンドヤキなどの祭礼、双体道祖神などの信仰対象の四つとしている。 | ||
4 |
道祖神のご利益とはなにか。 |
ご利益を大きく分けると、ドンドヤキの祭礼に関するご利益と、信仰対象の道祖神塔のご利益の二つに分類される。いずれも、地域によって異なる。しかし、いろいろな調査から、基本的には祭礼は防災・防疫の祈願(厄払い)、道祖神塔は性病の治癒や子宝の祈願を主としていることが明らかとなった。 | ||
5 |
道祖神は「塞ぎの神」、つまり境の神、あるいは、道の神、五穀豊穣の神などといわれているが、実際はどうなのだろうか。 |
道祖神に関する本質的な問題ではないかと思う。これまでの道祖神に関する論考も、こう した性格を前提に語られてきたが、その実態を探ると道祖神塔は必ずしも村々の境界に造立されてはいないし、道の守護神といわれながらも道標にすらなっていない。その根本的原因は道祖神の歴史、つまり信仰の変遷に要因があるのではないかと思われる。以下順を追って考えてみよう。 @ 「記紀」において神となった起因は現世と来世間(境思に石や 杖を置いて塞いだことから始まった。つまり、発祥の基本は境界の神であり、塞ぎの神である。 A しかし、古代、中世には性の神として捉えられていたようである(擬人化か木偶、石仏はみられない)。 B 近世にいたると、当初は防災・防疫神として造立されたが、程なく性病の治癒や子宝の祈願に変容した。 C 五穀豊穣については生殖に繋がって生まれたご利益で、それぞれを目的としての造立ではないことから、二義的なご利益と考えられる。 |
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6 |
道祖神は生殖器を祀る「性神」と同一か。 |
Aの1 性格が似ていたり、時には習合したりして一見同一のようにみえるが、本質的には異なる。性神は生殖器のもつ威力によって悪霊を防いだり、豊作や子宝を祈願した原始宗教である。ご神体は生殖器である。 Aの2 道祖神信仰は神話によって生まれた信仰ではあるが、近世の世相に応じて変容した、性を色濃くした信仰である。信仰対象も道祖神塔という定まった形態や像容をなす。つまり歴史や信仰対象、ご利益のいずれも異なる。 |
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7 |
石棒や陰陽石は道祖神といえないか。 |
近世の道祖神塔が造立される以前の道祖神塔は石棒や陰陽石が道祖神とされてきたといわれている。しかしその実態は不明である。近世においては道祖神塔の供物や性神として祭祀されることはあるが、道祖神塔として単独の祭祀は見られない。 | ||
| 8 | 道祖神信仰と道祖神塔の普及領域はどのくらいか。 | 道祖神信仰は全国で約40県、それに対して道祖神塔が存在する県の数は20県と約半数である。 | ||
| 9 | 道祖神の信仰対象にはどのようなものがあるか。 | ドンドヤキ(祭礼)のご神体(男女一対の木偶や藁人形が多い)と石造道祖神塔 | ||
| 【2】道祖神の歴史 (1) 古代・中世の道祖神 | ||||
| 1 | 道祖神(サイの神)の発祥の根源は | 「記紀」の神話に端を発したとされる。 | ||
| 2 | 具体的な発端はなにか。 | 現世と来世の間に塞ぎのために置いた石および杖が「塞の神「道恨埋」となった(化成神)。 | ||
3 |
その後朝廷の塞ぎの神として崇敬されたか。 |
朝廷が編んだ歴史書に書かれていながらなぜか無視され、防疫神として別の神が祀られていたとみられる。民間においても「塞ぎの神(防疫神)」として祭祀した様子がみられない。 | ||
4 |
平安時代の道祖神はどのような存在であったか。 |
「性に関わる神」として信仰され、その神格は他の仏菩薩より一段低い位置におかれ、しかも「道の神」「下品の神」といった賤しい存在とされていた。 | ||
| 5 | 鎌倉時代以降はどうか。 | 武士が台頭し、「縁結びの神」や「神威ある神」「塞ぎの神(防疫神)」として崇敬されるようになった。 | ||
| (2) 近世の道祖神の歴史 | ||||
| 江戸時代にいたると宗教の世界は一変した。地域共同体が形成され、小正月の年中行事としてドンドヤキ(火祭り)が生まれ、石仏が各地で造立された。 | ||||
| 1 | 宗教の世界が一変した主たる要因はなにか。 | 寺檀制度による住民の定着。寺院による先祖供養の奨励により仏壇やお墓、石仏の造立が盛んとなった。 | ||
| 2 | ドンドヤキ(火祭り)の発祥の要因はなにか。 | 共同体社会における防災・防疫神が求められ、左義長と道祖神が習俗した形で誕生したとみられる。 | ||
| 3 | 江戸時代における石仏造立の状況はどうであったか。 | 多種多様の、しかも膨大な数量の石仏が造立された。いわば、あらゆる信仰が石造物で表現されたとさえ思わせるものであった。 | ||
4 |
同時代の道祖神塔の造立時期とその過程はどうであったか。 |
江戸時代の初期後半、庚申塔や地蔵菩薩の造立が最盛期頃の時代に普及した。その過程は地蔵菩薩・庚申塔1二十三夜塔・道祖神塔I馬頭観音へと普遍化していった。 | ||
5 |
道祖神造立の盛衰について |
1620年代頃より造立が始まり、1700年代から隆盛、1750から1800年代にピークに達した。その後急速に衰退し、現代に至り絶滅した。 | ||
| 【3】 ドンドヤキ(祭礼)に関して | ||||
| 1 | なぜ火祭りか。 | 左義長の習俗が用いられたと思われる。 | ||
| 2 | なぜ小正月の十五日になったのか。 | はっきりした理由は不明ながら、潜在的要因は左義長の祭日が用いられたと推測される。しかし、それ以外にも多くの理由があったものと思われる。、 | ||
| 3 | ドンドヤキに祭神が祀られたのはなぜか。その祖型は。 | 小屋に祭壇を設ける空間が生まれた。像容は双体道祖神をモデルに作られたものと推測される。 | ||
| 4 | 火のなかに道祖神を投げ入れる習俗が見られる。起こった理由はなにか。 | 祭神を燃やす風習に習って生まれた習俗ではないかと思われる。 | ||
5 |
「サイの神は馬鹿だ…」といった囃し歌の意味は。 |
道祖神(サイの神)の囃歌は各地で異なる。多くは悪口であるが、そのなかに道祖神がどう捉えられてきたかを窺うことができる。古代・中世における道祖神の神格が引き継がれていると推測される。 | ||
6 |
道祖神祭(ドンドヤキ)の信仰と道祖神塔の信仰は同一か。 |
道祖神(サイの神)という呼称は同じであるが、ドンドヤキは防災・防疫の祈願、道祖神塔は性病の治癒や子宝の祈願であって、基本はともかく表面的には異なる。 | ||
| 7 | 名称が同一であると、齟齬が生じないか。 | いろいろなところで生じてきた。道祖神塔は性病の治癒や子宝の祈願のために造立されたにも関わらず、ドンドヤキの火のなかにくべられるなどは、その代表例といえる。 | ||
| 【4】 道祖神塔(信仰対象)について | ||||
| 1 | 道祖神塔はどのようにして誕生したか。 | ドンドヤキ(火祭り)の行事に対して、恒久的な防災・防疫神が要求されて道祖神塔が造立された。 | ||
| 2 | 現存する最古の道祖神塔について | 群馬県倉淵村の双体道祖神(僧形並列合掌像)。1625年の造立。 | ||
| 3 | 道祖神塔はどのような時期に造立されたか | 江戸時代の初期後半、庚申塔や地蔵菩薩造立などの刺激を受けて造立され普遍化していった。 | ||
| 4 | 道祖神塔にはどのような形態が存在するか。 | 刻像塔(単体道祖神・双体道祖神)・文字塔・石祠道祖神・丸石道祖神がある。 | ||
| 5 | 現存する道祖神塔はどのくらいか。 | 全国で1万6千基にのぽるとみられる。 | ||
| 6 | 道祖神の造立されている地域(地域分布)。 | 中部・東北地方17県、山陰地方3県の20県に分布している。 | ||
| 7 | 特に多い県はどこか、またどのくらいか。 | 静岡県・神奈川県・山梨県・群馬県・長野県が多く、全体の90%を占める(主要五県)。各県の造立数は2千から4千基である。 | ||
| 8 | なぜこの地域にのみ多く造立されたのだろうか。 | 一地続きであること。高遠の石工の活動範囲であること。性病の治癒や子宝の祈願に最適な温泉地帯であることなどが考えられる。 | ||
| 9 | 単体道祖神の発祥と占める割合。 | 1673年頃、伊豆半島において地蔵菩薩をモデルに創造された。全国で1200基と全体の8%を占める。 | ||
| 10 | 双体道祖神の発祥と占める割合。 | 1600年代に二尊仏・二地蔵をモデルに創造されたと推測される。全国で約8000基、占める割合はほぼ50%である。発祥地は神奈川県近辺と目される。 | ||
| 11 | 丸石道祖神の造立と存在地域はどうか。 | 甲府盆地の笛吹川の支流を中心に造立された。総数は約780基ほどである。現存最古は1747年と遅い。 | ||
12 |
石嗣道祖神の造立と存在地域はどうか。 |
八ヶ岳山麓を中心に多く造立されている。総数は約1千基程で全体の6%ほどである。現存最古は長野に存在する1637年造立の石祠道祖神である。 | ||
13 |
文字塔の造立はどうか。 |
文字塔は刻像塔と比較して経済的に安価であることから造立されたとみられる。総数4500基から5000基と推測され、全体の30%を占める。 | ||
| 14 | なぜ道祖神には単体道祖神と双体道祖神があるのか。 | 造立した石工集団の系統が異なったことによる。 | ||
| 15 | 双体道祖神の像容はどのような変遷をなしたか。 | 基本的には僧形並列像(双仏石)→男女合掌像→男女握手像・肩組像→接吻像→祝言像・抱擁像・交合像→雲上像。 | ||
| 16 | 像容が変身していった背景にはなにがあったのだろうか。 | 信仰が変容したことが最も大きな原因と考える。その背景には伊勢まいりなど人々の交流が盛んとなり、性病が広まったことや子宝祈願の強まりなどが、窺える。 | ||
17 |
最盛期の妖艶な姿態は何に影響されたのだろうか。 |
自由な発想によって創造されたとみられるが、なかには浮世絵や羽子板の押し絵を参考にしたという説もある。儀軌が存在しないだけに、石仏のなかでも最も大胆に自己の発想を表現できたのではないかと思われる。 | ||
| 18 | 道祖神塔には年号が記銘されている塔は どのくらいの割合で存在しているか。 | 山梨県の例では双体道祖神34%、文字塔58%、石祠道祖神 55%、丸石道祖神37%、また群馬県の場合は双体道祖神 46%、文字塔 62%、と文字塔は高いが、刻像塔は低い。 | ||
19 |
年代分布にはどのような特徴があるか。 |
各県には独自の文化があり、形態も異なる。にもかかわらず30年移動平均をとると、盛衰の状況が瓜二つで、A県の状況がそのままB県に平行移動をしていたり、全く同じ期間内で盛衰の変化が同時におこる、といった実態が明らかになった。 | ||
| 20 | 年代分布のピークを追うとどのような順序になるか。 | 静岡県→神奈川県・群馬県→山梨県・長野県→新潟県と推測される。 | ||
21 |
道祖神塔はどのような経路を経て普及していったのか。 |
道祖神塔は静岡県の伊豆半島および太平洋沿岸の一帯に存在する単体道祖神と、神奈川県中東部における僧形の並立合掌像を源流とし、形態や像容を変容させながら北上、山梨県や群馬県、長野県などを経て最後は日本海側の新潟県に至るという、関東甲信越地方を横断する大動脈を形成したのである。 | ||
22 |
道祖神塔の像容の変遷に二つの流れがあったとは。 |
一つは静岡県や神奈川県に見られる当初の像容を一貫して維持していった(防災・防疫神)。いまひとつは群馬県や長野県に見られるように像容をどんどん創造し発展させていった(性病の治癒や子宝の祈願)。 | ||
23 |
道祖神塔は集落の災いを防ぐために集落の出入口(境界)に祭祀されてきた、というのが通説となってきたが実態はどうか。 |
Aの1 初期の道祖神塔は集落の災いを防ぐために造立されたと思われるが、その祭祀位置の仕方は家集団(村組1班)ごとに造立するもので、集落の中心か後背地、あるいは村組の中に造立され集落の出入口(境界)にされたものはわずかであったことが判明した。 Aの2 造立の目的が性病の治癒や子宝の祈願に変わってからは性愛を表現した姿態に傾斜し、祭祀位置も三叉路の股にあたる部分や大木の根元など、性をイメージする場所に変化していった。したがって集落の出入口に祀られるている場合もないではないが、「塞ぎ」の意味での祭祀はそう多くはないと思われる。 |
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| 【5】 道祖神信仰について | ||||
1 |
日本における宗教や信仰に関する大きな事件とはなにか。 |
日本における大きな宗教的変革には次の3つが挙げられる。 @ 仏教の伝来と奈良・平安時代の神仏混淆の発生。 A 江戸時代初期に施行された寺檀制度による仏教の国教化。 B 明治維新の神仏分離令と廃仏棄釈。道祖神信仰はこうした変革の影響を受けながら生きぬいてきたといえる。 |
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| 2 | 道祖神信仰は何年ぐらいの歴史だろうか。 | 「記紀」を発祥とすればほぼ1300年の歴史となろうか | ||
3 |
道祖神の歴史を大きく分けるとどうなるか。 |
@ 古代(奈良・平安時代)貴族支配(説話文学)「性に関わる神」を主に「道の神」「下品の神」と表現されている。 A 中世(鎌倉・夕町時代)武士支配(説話文学)「縁結びの神」や「神威ある神」「塞ぎの神(防疫神)」と表現されている。 B 近世1(江戸時代)防災・防疫神として信仰。それに応じて祭礼(ドンドヤキ)が生まれ道祖神塔が造立された。 C 近世2(江戸時代) 性病の治癒や子宝の祈願の信仰。性の神として道祖神塔の像容に男女像が生まれた。 D 近代(明治以降)祭礼(ドンドヤキ)や道祖神塔の造立が次第に衰退し、消滅していった。 |
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4 |
道祖神信仰は火祭りや豊かな像容といった華やかな存在の反面、複雑で曖昧模糊としているという。その大きな原因はなにか。 |
@ 途中で信仰が変容した。つまり、防災・防疫神としての信仰が、途中で性病の治癒などの性の神の信仰になった。 A 道祖神祭(ドンドヤキ)と道祖神塔が信仰を変容し途中で分 かれ、無関係になってしまった。にも関わらず同一の存在 として捉えられてきた。 B 道祖神の発祥や普及の発信地が長野県とされてきた。 C 道祖神が一貫して「境の神=塞ぎの神」として、理論が展開されてきた。 |
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5 |
「地蔵はサイの神を継承」とする説があるがどう捉えたらいいか。 |
地蔵の歩んだ歴史から二つに分けて考える。 1 古代・中世においては資料がなく不明であるが、地蔵信仰の歴史や地蔵の造立(逆修塔)、造立者の階級から鑑みると継承説には無理がある。 2 江戸時代には地蔵菩薩のほうが道祖神塔よりはるかに早く造立された。よって地蔵の継承はありえない。ただし、「境の神・塞ぎの神」は「あの世とこの世」との関連から習合は十分に考えられる。 |
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| 6 | 「賽の河原はかつて道祖神が祭祀されていたところであった」といわれるがどうか。 | そうした形跡もなく、また石積みが石棒に変化し、さらに地蔵に変化した痕跡もなく、不明である。 | ||
| 【6】 江戸時代中期、道祖神信仰は怒濤のように関東甲信越地方を席巻、わずかの間に大量の道祖神塔が造立された。 | ||||
1 |
道祖神塔造立を急速に促した要因はなにか。 |
江戸時代中期、道祖神信仰は怒濤のように関東甲信越地方を席巻、わずかの間に大量の道祖神塔が造立された。 A 性病治癒の緊急性と良縁および子宝に対する強い祈願。 |
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| 2 | 性病治癒の緊急性の時代背景はなにか。 | 江戸中期には人々の交流が盛んになり、遊廓をはじめ旅籠が増し、遊女や飯盛女が増加、花柳界が隆盛をきわめたことにある。 | ||
3 |
性病の緊急性との関係はなにか。 |
花柳界の隆盛に付随して梅毒や淋病などの性病が広まった。特に遊廓に働く遊女は必ず罹ると覚悟しなければならないほど蔓延した。もちろん相手をした客にも感染し、その被害は家族や子孫にまで及び、性病に悩むものが激増した。 | ||
4 |
どのくらいの人が罹ったのか。 |
具体的な統計資料はないが、元禄期には「京の人半ば唐瘡なり」とか、「大阪中百万人を平均し十人に三、四人は湿毒を患へぬはなし」、あるいは杉田玄白は当時の診察で、ほとんどの人に梅毒の兆候をみてとったとあるところから、いかに大勢の人々が罹っていたかが想像されよう。 | ||
| 5 | 道祖神信仰と性病の関係はなにか。 | 性病は当時の医学では治療の方法がない不治の病であった。結局、湯治場で療養をなすか「神仏にすがる」ことしかなかった。 | ||
6 |
子宝の祈願についてはどうか。 |
「三年にして子無きは去る」と云われるように、健康な嫁でも子種に恵まれないと、石女禾生女Iうまずめ)と呼ばれて離縁の理由となりえた。そればかりか「甲斐性なし」など屈辱的な言い方をされてきた。結婚したら子供が授かることが本命であり、本人はもとより家族、実家、親戚、ひいては集落全体の問題でもあった。結局最後は神頼み、道祖神塔にすがるしかなかった。 | ||
| 7 | 双体道祖神について新たな像容の分類ができるのでは。 | 僧形並列濛と男神、女神像に分類され、さらに男神、女神像は握手濛のような自然な性行為の像と祝言濛などの象徴的性行為の濛に分けられる。 | ||
8 |
道祖神塔の像容は浮世絵の影響を受けていると聞くが。 |
道祖神塔の絵姿は端的に云うならば「山村の枕絵」といったほうが合っているかもしれない。とはいえ、描かれたモデルおよび生活基盤、製作根拠に焦点をあてて比較した結果、その影響はほとんど見当らなかった。 | ||
9 |
具体的な相違はなにか。 |
遊女と客という構図が道祖神塔にみられない。道祖神塔はあくまでも相思相愛の像が基本構図であった。異性の性器を直接愛撫したり、性器の結合や男性の性器を殊更に誇張した図柄は道祖神塔には皆無である。 | ||
| 10 | 浮世絵や枕絵の影響がなかった根本的原因はなにか。 | 道祖神塔は信仰対象がゆえに性を遊戯化したり、享楽視することは遠慮し、節度ある像容を刻ませてきた。 | ||
11 |
道祖神信仰の教示したものはなんだったのだろうか。 |
@ 民俗信仰の多様性 A 民俗信仰の深い歴史性と変容など民俗信仰のもっ特異な性格を顕著に表していた。 |
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形態や像容が教示したものはなにか。 |
@ 道祖神塔の歴史 A 普及経路 B 民俗信仰の主尊の変容の歴史 C 村民の性意識の実態 D 信仰対象に対する性愛表現の認識 E 庶民の合理性 F 石工に託された自由への憧れ G 民俗の内面に濳む生への逞しい子不ルギーなど。 |
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