活動記録


 

■創立125周年 記念剣道大会開かる

長岡稲門会では創立125周年記念協賛事業として、7月8日(土)南部体育館において、記念剣道大会を開催しました。大会には、市内の少年少女剣道会(クラブ・教室)11チームが参加し、小学生3人と中学生2人によるチーム対決によるトーナメント戦というほかでは見られない形式で行われました。

その結果、長年剣道指導会でご指導をいただいた長岡剣道会の渡辺先生の率いる桜剣士会Aチームが優勝、同Bチームが準優勝となりました。また同時に行われた、一般の部、選抜指導者トーナメント戦には、8人の先生が出場し、長岡剣道会の金光俊和五段が優勝しました。

参加者には恒例の「早稲田手拭い」と「125周年記念ストラップ」が贈られたほか、優秀チームには記念トロフィーとメダル、それに「早稲田野球部オリジナルスポーツマフラー」が、また一般の部の優勝者には「125周年記念稽古袴」が贈られました。

早稲田色に染まった賞品を手にした少年剣士たちは、うれしそうにメダルとスポーツマフラーを首から提げて記念写真を撮り合っていました。

ご支援をいただきました諸先輩・関係企業の皆様には厚く御礼を申し上げます。ありがとうございました。

またこの日、太陽が西に傾く頃を待って、納涼会が「割烹魚藤」で開かれました。こちらは「早稲田はドジョウだ」という大地会長の主張に合わせたもので、魚藤自慢の甘く味付けされた柳川鍋をつつきながら、ごぼうの土の香りを楽しみ、夜の更けるまでよもやま話を咲かせました。

 

■県内各地の記念事業

今年は長岡の剣道大会を皮切りに、秋には県内各地稲門会でも記念事業が行われました。主なものを列挙してみました。

 

9月8日(土)  新潟日報朝刊に祝賀全面広告を出稿

 

          125周年記念功労者(市島謙吉先生・早稲田四尊の一人)法要・墓参

新発田市・浄念寺

          エクステンション講演会「日本外交と朝鮮半島」重村智計教授

新潟市・朱鷺メッセ

          記念祝賀会 アトラクション「日本海の夕日」

ホテル日航新潟

          白井総長・瀬下代表幹事・篠田新潟市長を囲む会

鍋茶屋

9月25日〜30日 「早稲田スポーツ栄光の瞬間と新潟早稲田人脈展」 

新潟三越

10月4日〜9日  「早稲田スポーツ栄光の瞬間と新潟早稲田人脈展」 

大和上越店

10月26日〜11月25日 「相馬御風と早稲田展」

糸魚川歴史民族資料館

11月23日〜24日 早慶ラグビー観戦・大学見学ツアー

国立競技場・リーがロイヤルホテル東京・早稲田大学

新発田稲門会主催


 

ここで一言

市島謙吉−大隈と早稲田の語部−

大隈の膝下に集まり、その政治理念の実現と、彼の創設した早稲田大学を支えた人々は多士済々でした。その中に、小野梓の鴎渡会に集まった東京大学を出た新鋭たちがいます。

高田早苗を中心とした人たちで、“大学7人組”と称されたグループです。市島謙吉もそのうちのひとりでしたが、彼は大学を中退し、明治14年政変で下野した大隈のもとに馳せ参じます。以来1922(大正11)年に大隈が他界するまで、40年余随身したのです。また、市島謙吉(春城)はまた非常な健筆家で、多くの随筆、記録等を残し、大隈と早稲田大学についてのいわゆる“語り部”的な存在でした。

 1860(万延元)年、井伊大老が桜田門外で遭難した年に生まれ、1944(昭和19)年に85歳で没しました。その享年が大隈と同じなのも奇縁なことです。

 生家は越後新潟の豪農市島一族で、維新後に長官として赴任してきた前島一誠は、市島家を役宅として用い、幼い頃の春城を可愛がったといいます。水原、新潟に学び、上京し東京大学に入学。同期の高田早苗、坪内逍遙、岡山兼吉、山田一郎、山田喜之助、砂川雄峻らと交わり、鴎渡会、そして大隈の創る政党・立憲改進党を支え、かつ、東京専門学校の設立、早稲田大学の発展に尽くすこととなっていきます。

 とりわけ高田と市島との関係は強く、その果たした役割からすると、太陽と月とにたとえられる関係だったといえます。

 高田は、早稲田の総長、政治家としても代議士、貴族院議員、文部大臣をつとめました。市島も新潟県選出の代議士として議員生活はありますが、病気のため断念し、以降早稲田大学の理事、監事、図書館長として高田を補佐、募金活動、図書館の発展に貢献します。

 高田のかげにかくれている市島ですが、第二次大隈内閣の時の総選挙で大隈の後援会会長、早稲田騒動では高田派の総参謀として矢面に立ち、大隈の葬儀では総務として全てを取り仕切っています。高田の外遊や病気が重なったことにもよりますが、万端支障なくその任を果した市島は、名利を求めず磊々洒然(らいらいしゃぜん:物事にこだわらず)として生きた”文人”でもあったのです。

 


戻る