今月のコラム


2003年1月22日

早稲田ラグビー「荒ぶる」復活

清宮マジックを検証する

かわらばん書き

ついに、13年ぶりに早稲田ラグビーは「荒ぶる」復活劇を演じた。

昨年の大学選手権が終わった後、私は「真の王者関東学院と清宮マジックに脱帽」と題する雑文を書いた。ところが世の中にはご奇特な方がいるもので、その文を手放しで褒め称えてくれた。同感だというのである。「朋あり遠方より来る、亦楽しからずや」である。ならば今年も書かなければならない。すでに私は使命感に燃えているのた。

数十万人の早稲田OBと、早稲田ラグビー・ファンがどれだけこの日を心待ちにしただろうか。

1月9日国立競技場、関東学院大学のブルーのユニフォームが、タッチを切られたボールを追いかけた時、レフリーの右手が上がり、ノーサイドの笛がグラウンドにこだました。27-22で早稲田の優勝が決まった瞬間である。

堂々たる優勝だった。この試合後半こそ、関東学院のフォワードの猛攻に苦戦したものの、精神的には余裕の勝利であった。そしてもちろん、準決勝までの全てのゲームが、今年の目標であったアルティメイト・クラッシュ、完膚なき圧勝であった。

その瞬間から、13年ぶりの「荒ぶる」とともに、早稲田復活フィーバーが始まったのである。そしてマスコミに取り囲まれたその中心には、いつも清宮監督がいた。

清宮監督のキャプテンシーや不敵な面構えについては、今さら言うまでもない。監督就任にあたり、歴代の人たちのように土日だけのパートタイムでなく、平日午後も含めたフルタイムの3年契約とし、優勝を請け負った話も有名になった。

それに対して、大学も芝生のグラウンドを用意して監督を迎えたという。

また監督単独で乗り込むのではなく、運営スタッフとして総務を新設して、自分の信頼できるメンバーでのチーム作りにこだわっている。これはサントリー土田監督の手法だという。

大学の決めたアディダスとのパートナー契約が有名になったが、具体的にまったく新しいことに取り組み、古いものを整理したのは、社会人ボランティアによる総務であった。

コーチの充実は言うまでもない。

監督の指導のポイントは、短時間集中の練習と選手の大胆なコンバートにあるという。

これは、1日5,6時間だったチーム練習を、2時間に集中して、個々に目標を数値化して取り組ませたという。また、従来のポジションに関わらず、選手のゲーム中の動きから適性を判断して、大胆にコンバートしたという。その結果、走れるフォワードが誕生したのである。

具体的に言えば、スクラムハーフだった羽生をフランカーにコンバートたり、フルバックの大田尾をスタンドオフにしたり、元バックスのロック高森は自由に走らせるなど。これは細部にはこだわらず、長所を伸ばす指導法を貫いた結果である。

しかし私がゲームを見ていて一番強く感じたのは、タックルされた選手のボール処理、いわゆるダウンボールの正確さである。これは社会人ではあたりまえの基本であるが、学生チームにはこの基本が出来ていないチームが多い。一昨年までの早稲田もそうであった。そして、関東学院はその点が突出していた。

ギリギリまでボールを抱え込むと、ボールを殺されてしまい、結局ターンオーバーされることになってしまうが、タックルポイントをはずして、確実にダウンボールをすれば、素早いフォローが続く限り、ボールを連続支配することができるのである。

早稲田ラグビーの理論的支柱である大西理論の「接近、緊張、連続支配」は、かなり古い時代のものになったが、その内容は少しも古びていないことを実感する。この基本をふまえて、ワイドなゆさぶりを加えたところで、トライが生まれるのである。

ところが弱い時の早稲田は、ワイドなパス回しのみに気を取られ、基本が忘れられているという感じなのだ。すなわち形の模倣に過ぎないという印象である。

もちろん毎年立派な監督が就任しているはずなのだが、成果が現れなかったのは、やはり監督の側も、パートタイムの限界をあらかじめ意識していたのかもしれない。

一方組織的なディフェンスについては、定評のあるところで、幾分の皮肉をこめて、早稲田ラグビーは組織ラグビーだと定義づけられるのである。

私がここで思うのは、強い時の組織と、弱い時の組織はどこが違うのかということである。

弱い時には組織の中に個が埋没し、強い時には個を生かすために組織が存在する。そんな感じである。言い方を変えれば、一粒一粒が際立った活きのいいタラコと、グチャグチャの活きの悪いそれの違いである。

構造改革を叫ばれながら、なかなか変われない組織が、現在日本社会には珍しくないようであるが、これらの組織は活きの悪いグチャグチャのそれである。そこでは個人の目的と組織の目的が、本音の部分でかみ合わなくなっている。個人は個人の快楽を追及して同質化し、組織は組織防衛に走っている。

昔の日本はこうではなかった。追いつけ追い越せという名のもとに、個人も組織もそれぞれが統制されるわけでなく、明日の豊かさを追い求めていた。そこには目的の一致、志の一致があった。

同じ文化、個性の持ち主だけでは、組織は同質化して真価を発揮できない。異才をいかに取り入れるかが、組織作りでは大事だといわれている。目的を共有する異質集団こそが真価を発揮できるのである。

そんな意味で、私は似たものながら、サッカーよりもラグビーが好きなのである。デブとノッポと小人と天狗が集まってボールを奪いあう。社会の縮図を見るようで実に楽しいではないか。

 


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