今月のコラム
2011年7月1日
校友は大隈重信を知らない?
平成11年5月、私は早稲田大学校友会東京都23区支部支部長海老沢勝二氏より、稲門会各位宛の郵便物を受け取った。そこには、以下のような内容が書かれていた。
昨年、NHK大河ドラマで坂本竜馬が時の寵児となったが、同時代に活躍した大隈重信に現世でなかなかスポットライトが当たらないのは残念である。大隈の葬儀は「国民葬」として行われ、当時の東京都民の1割近い30万人もの人々が会葬したとも伝えられている。まさに国民的英雄であった大隈重信を竜馬以上の人気者にしようではないか、との想いを受けて、我が稲門の神田陽司が自ら書き下ろした「講談 大隈重信」のCDを贈るというものであった。
CDを開封して聞いてみると、確かにそうだと思う反面、どうして私は大隈重信を知らないのかと不思議な想いに駆られた。
ここで、自戒の念をこめて、自らを語りたい。
昭和50年初冬、高校3年生だった私は、受験勉強の傍ら「青春の門」を読み、漠然と早稲田なる世界に想いを めぐらしていた。世間にあまり関心のない高校生だったが、明けて1月、受験の下見にと上京した私は、古色蒼然とした冬枯れのキャンパスを散策し、大隈銅像と早稲田講堂を見るに及んで、早稲田への想いは確たるものへと変わっていた。そして、入学式で「都の西北」を歌いながら、感極まり、神宮球場に出かけては感激の涙を流し続けてきた。親父の死にもまだ一滴の涙も流していない私の涙腺は、実は若いころから緩み放しであった。入学して最初に読んだ本は、四畳半の下宿部屋でブラックニッカ(野坂昭如がみーんな悩んで大きくなったと歌った)をちびりと飲りながら読んだ「人生劇場」であった。卒業して30年が過ぎ、若者相手に講釈する機会も増え、時には「都の西北」をネタに語ることもあったが、未だ大隈重信については何も知らない自分の存在に気がついたのもこの時であった。この時点での私の大隈は下記3点に集約される。
@ なにはともあれ東京専門学校の創設者である。
A 自由民権運動を起こし総理大臣に二回もなったが長続きしていない。
B とにかく雄弁であり大風呂敷とも言われた。
数人の稲門に尋ねたところ異口同音に知らないという。これは驚きの発見であった。私だけではないのだ。戦後教育の中では、現代史はタブーとされ授業で登場することはほとんどなかったため、明治イコール薩長藩閥政治から戦争の時代への1行で済まさせてきた結果だろうと思われる。私は受験科目として日本史を選択したが、それでも「早稲田大学創始者について知ることを800字以内で述べよ」などという問題が出ることはなかったし、著名な赤本にはその手の問題は出題されないと記されていたはずである。
ここに及んで、私はとりあえず「3分で知る 大隈重信」をまとめる必要があると悟った。といっても、大学ホームページに記載されている程度の内容を、かわらばん書きの視点でまとめるだけであり、すでに常識と称される先輩の眼鏡に適うべくもないことだけは申し添えると同時に、関連する内容の寄稿をお願いする次第です。
■5分で知る 大隈重信■
内容は全て大学ホームページから抜粋したものです。
結局、ウィキペディアと同じだったらどうしよう・・・
30歳まで・・・十有五にして学に志す
幕末、佐賀藩の志士として頭角を現すが、葉隠れ思想の支配する佐賀鍋島藩の一藩主義のもと、薩長や龍馬のような活躍には至らず。この期間フルベッキに学び、英学塾「致遠館」に校長として迎えたことが早稲田創立への伏線となっています。
大隈が中央に登場するのは幕末、大政奉還を進言するため脱藩するが謹慎処分となりました。
挫折その1
30歳から・・・三十にして立つ
明治政府ができると、30歳にして登用され、キリスト教徒の処分問題でイギリス公使パークスと論争、雄弁家として勇名をはせました。
同年には築地に自宅を建てるが、次第に食客、政治家が集まる合宿所の様相を呈し、築地梁山泊と称せられるようになります。
明治6年の政変では西郷隆盛、江藤新平らの征韓論と袂を分かち、大久保利通と内政重視の立場をとります。以降、参議兼大蔵卿として、明治14年の政変で失脚するまで、権力の中枢にありました。35才から43才のことです。
明治政府の建設期であることから、鉄道建設、郵便制度の創設を初め、地租改正、通貨統一、予算決算制度の創設や銀行の設立、会計検査院設置という大隈財政などの文明開化政策を展開しました。長岡に文明開化に活躍した三島億次郎も大隈の政策に呼応したものでした。意外なことに実務家としての業績が並んでいることに驚かされます。
そして有名な明治14年の政変である。大久保利通が紀尾井坂に倒れてから権力の集中した大隈は、早期の憲法制定、国会開設という主張が薩長勢力に受け入れられず失脚します。
挫折その2
郵便事業の創始
近代的な統一国家の建設のためには、情報の迅速な伝達が不可欠の要素でしたが、維新後はまだ宿駅・飛脚制度が旧態のままで、その改革は差し迫った課題となっていました。大隈は前島密にその改正にあたらせます。前島は越後高田藩の出身で、長崎遊学時代アメリカ人宣教師ウイリアムスより、アメリカ郵便制度の知識を得ました。そこでは国家の手になる郵便事業が確立し、迅速・安価な信書の発受が行なわれていたのです。明治4年「新式郵便」は3月1日を期し、東京・京都・大阪に開設することが布告されました。
これらの功績により、前島はわが国「郵便の父」といわれています。さらに前島は、明治14年の政変で大隈に従い野に下り、のちに東京専門学校校長(第2代)に就任することとなります。
鉄道の敷設
近代国家の建設には「封建に便利で統一に不利な山河自然の固めを破壊する上から鉄道建設が必要」と考えていた大隈は、伊藤博文・井上馨と築地の「梁山泊」で案を練りました。この時の構想は、東京−神戸、米原−敦賀間の建設でした。 大隈・伊藤はイギリス公使パークスの紹介でネルソン・レイと会談し、建設資金の借款契約を結びました(後にレイの不公正が発覚し、改めて東洋銀行(オリエンタル・バンク)と契約しました)。しかしロンドンの『ザ・タイムズ』に外債募集の広告が載っていたことが知れると国内の世論は騒然となりました。大隈らには「売国奴」の非難が集中しました。「兵部省も集議院も民間有志も大反対にて、建白書は山の如く、その中賛成は谷暘卿といふものの唯の一人のみ」でした。
また新潟県では、久須美秀三郎・東馬父子(和島の久須美様)が大隈に呼応して現在の信越線、越後線の敷設に尽力し、新潟県の鉄道王と呼ばれています。
明治十四年の政変−大隈の追放
自由民権運動の高揚に対して明治14年6月、政府内部では大隈のイギリス流立憲君主制と、岩倉・伊藤のプロシア流君権主義が、今後の採るべき国家体制として競合・対立していました。
開拓使長官黒田清隆は、1,400万円を投じた官有物を、38万円・無利息30ヶ年賦で、関西貿易社に払い下げる案を閣議に提出し、大隈らの反対を押し切り8月1日に決定しました。この払下問題が政府の議題となった7月末、東京の諸新聞は一斉に批判の論陣を張りました。新聞にみられる世論は、政府と政商の結託批判から藩閥政府批判へ、さらには国会開設要求に発展していきます。そして、大隈の払下反対と国会開設意見書を支持し、大隈の声望は高まりました。こうした状況下で政府首脳部には、大隈と在野民権陣営の結合という大隈陰謀説が確信的に広まっていきます。ここに、大隈追放が決定されました。イギリス流立憲君主制論と自由主義的官僚を放逐し、プロシア流国家体制という日本近代の基本路線が確定した政治事件でした。
44歳 四十にして惑わず
絶頂期からの転落、ここまではある意味よくある話ですが、大隈はここからが違いました。東京専門学校を創立したのはもちろんのこと、同時に立憲改進党を結党しました。政変で政府を追われ、自由民権運動の一翼を担って野に立ちました。大隈のもとには、自由主義的な元官僚や、新聞記者・代言人(弁護士)・教師ら都市の知識人たちが集まりました。これが、現代にも最も色濃く残る早稲田イメージを作ることになりました。
50歳 天命を知る
外務大臣となり、条約改正にとり組みます。そして国粋主義者に襲われ片足を失います。翌年には日本は幕末維新期に結んだ不平等条約から解放され、多年の宿願を達成することになりました。
挫折その3
60歳 六十にして耳順う
憲政党を結成、第一次大隈内閣をつくります。(日本初の政党内閣)
しかし、現代にも通ずるような、自由党との連合政権のため、わずか4ヶ月で辞任します。
挫折その4
69歳 七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず
早稲田大学総長となる。実に創立25周年にしてようやくの登場です。それだけに小野梓や早稲田四尊と呼ばれる高田・天野・市島・坪内の存在が大学にとって大きかったことが理解できました。大学に専念することは政界を引退することでもありました。
※早稲田大学の生みの親である大隈重信と小野梓を本尊に見たて、この二人を取り囲んで、草創期の学宛の基礎を築いた功労者である高田早苗、天野為之、市島謙吉、坪内逍遙の四人を「早稲田の四尊」と呼んでいます。
引退
76歳
第二次大隈内閣発足。シーメンス事件で山本内閣が倒れると、藩閥元老は民衆政治家として人気のあった大隈を再び担ぎ出しました。大隈は第一次対戦への参戦を決定し、対華21ヶ条の要求をしました。時代とはいえ批判は大きく、2年で崩壊します。
83歳
死去。残念ながら125歳を立証することはできませんでしたが、正しく大往生というものでしょう。
《エピソード1 築地梁山泊》
大隈重信の邸には、連日多くの来客があったことはよく知られています。
大隈邸の台所は上流社会の模範とまでいわれました。大隈に随従して多くの手記を残した市島謙吉(春城)のメモによれば、一年間の来客は23,963人におよび、この内食事を供した数は、上1,523人前、並1,641人前、西洋料理550人前、計3,714人前という明治45年の記録があります。 大隈の座談は談論風発、元気に満ちあふれ、客から出される質問に対してしばしば拳を振り上げゼスチュアを交え、あふれんばかりの知識を傾けて語り、何時間でも疲れを知らなかったといわれます。大隈の鋭敏な頭脳は、この座談の間に客から豊富な知識を吸収し、それがまた次の座談に生かされ、満座の客を喜ばせ感服させることになったのです。
《エピソード2 福沢諭吉》
福沢諭吉の創設した慶應義塾は、矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅等の優秀な人材を輩出しました。大隈は、これらの福沢門下の逸材を、1880(明治13)年に設立された会計検査院に登用しています。やがてこれらの若い官吏が、徐々に大隈のブレーン的存在に成長していきました。大隈と伊藤博文らとの盟約が微妙な雲行きとなるや、大隈は福沢一派と結託して政権を奪い取ろうとしているとの流言が生じたのです。その結果、事は明治十四年の政変によって大隈および矢野、尾崎、犬養といった大隈支持者が野に下るまでに発展しました。しかし、この事件によって、かえって二人の絆は堅固なものとなります。政変後に、大隈が設立した東京専門学校の開校式には、当然のごとく福沢の姿がありました。
明治34年2月3日、福沢逝去の知らせを聞いた大隈から、福沢家に西洋花が届けられました。供花は一切受け取らないという福沢家の受付に対し、大隈の使いの者はこういったといいます。「この花はそこらで買ってきたものではない。手塩にかけて温室で育てた花を、福沢先生の訃報を聞いた大隈が涙ながらに切ってつくったものである」と。福沢家の受付は黙ってそれを受け取ったといいます。
《エピソード3 大隈は東京専門学校の創立には出席しなかった》
大隈は創立者でありながら、明治15年10月21日の東京専門学校の開校式に出席しませんでした。病気ならばいざ知らず、創立者が欠席したままで開校式を挙げた大学など、聞いたことがありません。そればかりか、開校以来15年間、ただの一度も登壇したことがなかったのです。まことに妙なものであると言わねばなりません。これには理由がありました。
東京専門学校が設立された時、政府はこの学校を「明治14年の政変」で下野した大隈の私学校とみました。改進党壮士養成の謀反人の学校に違いないと考えたのです。この学校は設立準備中から早くも政府の監視するところとなり、密偵につけねらわれました。加えて、創立に尽力した高田早苗・天野為之らの教員の大半が、官員養成の東京大学をこの年7月に卒業しながら官途に就くことを嫌ったばかりか、こともあろうに、反政府の巨頭大隈の傘下に走った忘恩の徒と映ったのです。
そこで、改進党総理としての大隈は、創立者でありながら、この学校に対する反対派の風当たりを避け、「学問の独立」という確固たる信念のために、学校と自分との関係に明確な一線を画して、この晴れの舞台ともいうべき開校式に敢えて出席しなかったのです。目と鼻の先に居ながらも、見えない壁に阻まれた15年。その沈黙をやぶって学苑公式の場にあらわれた大隈の胸中に去来したものは何だったのでしょうか。
《エピソード4 無髭は平和の象徴》
当時の役人はほとんどが髭をのばしていましたが、大隈は生涯伸ばしませんでした。文明開化によって刀を奪われた武士たちにとって、失いかけた権威を取り戻すための虚飾が髭だったのです。大隈が「民衆政治家」と呼ばれ、広い国民層に抜群の人気があったのも、この辺に一因があるのかもしれません。事実彼は、日本史上初の髭なき宰相でした。
《エピソード5 大隈と始球式》
さらに明治41年秋、プロ野球のリーチ・オール・アメリカンが来日。11月22日、早大グラウンドで、早大対リーチとの第1回戦が行われました。この時に、大隈が始球式をつとめました。これが日本における最初の始球式となったのです。ボールは大きくはずれましたが、早稲田の一番打者が総長に敬意を表して空振りしました。以来、始球式は空振りで始まることが慣例化したと伝えられています。
《エピソード6 大隈の自筆》
大隈が「字を書かなかった」ことは有名です。一説によると藩校時代に下手な字を馬鹿にされたことから、「書は以って姓名を記するに足るのみ」という信念を抱き、一生貫いたとも言われています。(雄弁の人でしたから、書くという地道な行為はあわなかったんでしょうネェ。でもこの説では、土屋元副会長が舌好調氏でありながら、書にも定評があることの説明はできません。悪しからず)
《エピソード7 人生125歳説 》
「凡ての動物は成熟期の5倍の生存力を持っている」という生理学者の説をもとに、人間の成熟期25歳の5倍、125歳まで生きられると主張し、大隈講堂の時計台の高さを125尺としたことは有名ですが、その真意は次のようなものだという。
「肉体を支配する精神、例えば肉体が健全であっても勇気のない者は病気である──意思の力の閃きが絶えず五体を支配して自己と言う精神が生々して来れば、必ず肉体はこれによって支配される。勇気、反抗力、活動、この三ヵ条を補うに適当なる摂生を以てすれば、必ずしも人生僅か50年というような情けない弱音を吐く必要はない」
《エピソード8 国民葬−150万人の民衆に》
大正11年1月10日、大隈は83歳で永眠、民衆政治家としての大隈の人気は高く、日比谷公園の特設斎場で行われた「国民葬」には20万人を超える会葬者がありました。人の波は途切れませんでした。順番を待つ30万の人の列は神田橋あたりまで続きました。この日、早稲田、日比谷、音羽の沿道には150万人の人出があったといいます。
《エピソード9 大隈と長岡・・・越乃雪》
「越乃雪」は新潟県長岡市の銘菓で、越後の上等のもち米に四国の和三盆糖を配合して作ったお菓子です。長岡藩の家老だった河井継之助はもちろん、岩倉具視、井上馨、大隈重信らもお土産として買い求めたそうです。
《エピソード10 大隈と長岡・・・宝田石油》
明治30年代初めの石油鉱業界は、投機的な零細企業が乱立する一方、アメリカのスタンダード石油などの外資系企業が影響力を拡大していました。明治34年遊説のために長岡を訪れた大隈は、石油業者たちを前に石油会社の合同を提唱しました。この提唱に応じて山田又七は、中小の石油会社を合併・買収し、4次にわたる大合同を断行し、宝田石油を日本石油と並ぶ大石油会社に成長させました。現在建設中のアオーレ長岡は、宝田石油の本社跡地になります。
《エピソード11 大隈と長岡・・・廣井一》
古志郡小栗山に生まれた廣井一は、戊辰戦争の戦火によって荒廃した長岡で多感な中学生生活を送り、教育の振興によって郷里の復興を成し遂げようとする気運のなかで学問と政治にふれました。明治15年に彼は創立直後の東京専門学校に入学、早稲田で青春をすごし熱心にその学問を学びました。卒業後は改進党系の活動家として活躍する一方、新潟県会議員、長岡銀行・病院・新聞(北越新報社、新潟日報の前身)・鉄道に尽力しました。* 参考文献 箕輪義門『広井 一伝』北越新報社
《 終わりに 》
ここまで大隈を振り返り、ようやくイメージが湧いてきました。大隈の残した名言がなかなか見つからないと思っていましたが、総長としての次の言葉が一番しっくりするようです。
諸君は必ず失敗する。
ずいぶん失敗する。成功があるかも知れませぬけれども、成功より失敗が多い。
失敗に落胆しなさるな。
失敗に打ち勝たなければならぬ。