今月のコラム


2002年12月1日

武士 (もののふ) の進退

末席から眺めて、かわらばん書きあえてつぶやけば・・・

「武士の進退は自分で決める」

永田町界隈の報道を聞いていると、政治家の金権まみれの話題にことかかない。小泉首相はそのたびに、「出処進退は本人の決めること」と言い捨てているが、政治家は進むのはお好きでも、退くのはお嫌いのようである。もっとも、本人が思っているほど、国民は政治家が武士 (もののふ) だとは思っていないようであるが・・・。

一方一般社会に目を転ずると、昨今話題の銀行経営者の経営責任の追及が気になるところ。しかしこちらは、針のむしろに座らされているようでもあり、辞めるに辞められないのかもしれない。

そんな中で、改革派の知事として有名な三重県の北川知事が、3選不出馬を発表した。任期を半年残したこの時期の発表とあって、真意をさぐる報道がにぎやかであるが、絶頂の中で退くという姿勢は、実にすがすがしさを覚える。

ちなみに、地元紙の報道を見ると、北川氏は改革の旗手としての実績がカリスマ性を生み出し、独裁者の様相を呈しているらしいが、表面きっての批判も陰ををひそめているような状態であるらしい。その中での引退であるだけに、格別である。どこぞの国の将軍様にも聞いて欲しいような話である。

さらにつけ加えれば、北川氏も稲門であるということが無上の喜びである。

これが利害の絡まない組織となると、話は別である。

「辞めさせてくれ」、「続けてください」を繰り返しながら、極めて高齢になるまで続投し、判断が怪しくなったあたりで、「いいかげん引きずり下ろせ」、と足を引っ張るなどはよくある話。

当のご本尊は、辞めるなんてとうの昔に忘れかえり、「なぜだ」、と叫んでみたり、「ワシは焼け野が原にたたずんで以来50年、必死にみんなのために頑張ってきたのだ。そのワシに、辞めろと言うのはどいつだ」、と怒鳴られて、うつむいてしまうなどは、某党税調幹部と某党幹部のやりとりだが、この手の話は枚挙に暇がない。みんなかつては礼賛しただけに、始末に困る。

ところが我が長岡稲門会においても、原会長の辞意表明が恒例化している。会長はことあるごとに某に、「もう10年もやったんだから、辞めさせてくださいよ」と言い続けている。

「自ら謀らず、自ら求めず」

というのが、会長のモットーだそうであるから、自ら辞任を求め謀をめぐらすのは本意ではなかろう。ここは熟した柿が自然に落ちるように、流れの中で辞任したいと解釈したい。

そこで、原会長の自称10年の歴史を、かわらばんの中から拾い集めてみた。

昭和63年7月 臨時幹事会が開かれ、小林会長が高齢と病気を理由に辞任を表明。後任候補が決まらぬ展開に、岸幹事長が激怒。迫力に押されて、主だった幹事による別室協議の結果、原会長体制が決定。
昭和64年(平成元年) 新任期がスタート
平成2年 第1回剣道指導会開催。かわらばん創刊。
同3年 剣道A 海部首相来岡。
同4年 剣道B
同5年 剣道C 県大会開催、小山総長来岡。
同6年 剣道D 

第1回辞意表明。 「県大会も終わった」「5年という約束だった」と主張したが、本田裁定で終結。役員増強でサポート。

同7年 剣道E
同8年 剣道F 

第2回辞意表明。 「50年のホームカミングデーまでやってれさ」発言でで終結。「冗談じゃねぇて」との抵抗も後の祭り。

同9年 剣道G
同10年 剣道H 

第3回辞意表明。 「ボウフラがわく」発言。「死ぬまでやってれさ」発言で終            結。

同11年 剣道I   

かわらばん書きの「稲門会活動マンネリ化」発言。会長辞任への言質をとられ、会長攻勢に転ずる。

同12年 剣道J ミレニアム稲門紳士語録配布

第4回辞意表明。 募金活動の直前ということで、断念。

       

同13年 剣道K ホームページ開設。
同14年 剣道L 県大会開催、奥島総長来岡。

第5回辞意表明 (正式にはまだであるが)。  「ロータリーのガバナー就任により続投困難。名前だけの役職は、主義に反する」と主張。

さて、今年の辞意表明の行方はどうなるのだろうか。

いずれにしても、原会長は大変立派な業績を残してきたことは疑いの余地がないところである。それを包括的に継承するというのは、荷が重いであろう。ここは、原点に帰って、全ての事業を振り出しに戻し、裸の状態で辞任するくらいの覚悟が必要ではなかろうか。

幹事会諸氏の、目先の解決でなく長期的大局的視野に立った良識ある判断を期待したいものである。


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