ノーベル経済学賞は誰が受賞したかご存知ですか

 

戦争が始まって経済学も顔色を失ってしまいましたので、休んでいますが突然思い立って、質問です。

ノーベル経済学賞が発表されましたが、誰かご存知ですか。

まさか知りませんよね。私だって知らないんですから。

でも、思い出して新聞をひっくり返してみました。そしたら、なんと有名な人でした。私にとっては、ですが。

そこで、これはむりやり講義しなければならぬ、と思った次第です。今年のノーベル経済学賞はね、と人に話ができたらカッコイイじゃないですか。

今年の受賞は、「情報の非対称性」を経済理論に持ち込んだアメリカの3教授でした。

伝統的な経済学では、消費者や生産者は合理的行動をとるという前提をしていました。これは、古典派、とか新古典派とか、主流派、市場原理主義、ミクロ理論などと言葉を変えても同様です。

ところが現実は、経済取引をするものは立場によって必ずしも同じ情報を持っているとは限りません。例えば、ヤマダ電器はチラシを作る時に、コジマや他のライバルの動向や、メーカーの新製品発売情報、在庫処分情報などを検討して作りますが、一部の底値買いの人を除けば、チラシを見て「安い」と叫んで買ってしまい、翌週値下がりしたチラシを見て落胆する、というのはよくある光景です。

これは情報が対称でないことから生じた間違った消費者行動となるわけです実は合理的な行動をする人の方が例外である。それは情報が非対称だからである、というわけです。ですから、これは主流派に対するケインズ派の反論となるわけです。かれらはニューケインジアンと呼ばれています。

今年彼らが受賞したというのは、アメリカもバブルがはじけて、古典派の理論が集大成したといわれるニューエコノミー、これはIT化によって瞬時に均衡する経済といわれましたが、やはり「まやかし」だったということになってしまったからです。ならば、ニューケインジアンの主張に耳を貸そうではないかというわけでしょう。

さて、実際にはこの3人とは、アカロフ教授、スペンス教授、スティグリッツ
教授の3人です。

アカロフ教授といえば「レモンの原理」が有名です。

スペンス教授は「シグナリング仮説」が有名です。

そして、スティグリッツ教授は「効率賃金仮説」が有名です。

さて、それではアカロフの「レモンの原理」について、解説してみましょう。これは、グレシャムの法則「悪貨は良貨を駆逐する」によく似たものです。

アメリカでは、見かけ倒しのもの、ポンコツをレモン、見かけ以上に性能のよいもの、掘り出し物をピーチと呼びます。

まず、市場のもつ情報の非対称性の極端な場合を想定してみます。例えば、ヤフー・オークションを考えてみましょう。

ここでもし、中古車を買うとしたらどうでしょう。ヤフ・オクで入手できる情報は、少しの写真数行程度の説明だけです。しかも相手に関する情報も、ほんの限られたものです。この場合、あなたは新車同様の価格の車に入札するでしょうか。

もし、レモンだったら大損です。相手は詐欺師かもしれません。ですから、そういうリスクを考えると、特別安い価格でないと入札する気になれません。例えば5万円程度ならだめもとで入札するでしょう。でも100万円の入札はしないでしょう。すると、ここでは単価の安いものしか落札されないことになります。

低価格でしか落札されないという情報が流れれば、100万円の価値のある車、いわゆるピーチを出品する人はいなくなります。その結果、出品される車はすべてレモンということになり、そもそも市場そのものの存在しえなくなるのです。この市場はガラクタ市となるのです。

この話から結論されることは、情報の非対称性が存在すると、その市場そのものが存在しえなくなり、市場は効率的配分に失敗する、というものです。言い返すと、市場は価格決定のメカニズムをもてないことになります。

ネット・オークションが普及し始めた頃、ネット上のオークションは、価格が全ての決定要因となるため、より完全競争に近い市場となるという予測をする人が多かったのですが、今ではレアなものを一般市場より割高に探す人の市場となっている感があります。言い換えれば、めずらしいガラクタを高々と物好きに買ってもらう市場なのです。

かくして、新古典派、主流派経済学のいう市場原理は眉唾に過ぎず、均衡しないから政府の景気対策が必要である、と結論されるのです。

さて、「レモンの原理」はご理解いただけましたでしょうか。私はヤフオクを取り上げましたが、原作はあくまで中古車市場を取り上げています。結局ヤフオクでは、情報の非対称性を緩和するために、とくに詐欺師を排除するために、会員登録をし、実績評価をし、取引を有料にして市場を維持しようとしているのです。

これが例えば医者の世界であれば、国家資格によって一定水準を保証し、詐欺師や無資格者を排除して、市場を維持しているのです。知らない医者にでも、とりあえずはかかってみようと思えるのはそのおかげなのです。

もし仮に、半分は詐欺師であり、広告宣伝に力をいれたら、多くの人は安い医者、待たないでいい医者、サービスのいい医者に殺到し、本当の医者にかかる人は減り、誰も医学部をめざして勉強をする人はいなくなるでしょう。その結果はどうなるでしょう。

さて、今度はスペンスの「シグナリング効果」です。

ひきあいに出されるのは労働市場です。労働市場では、求職者は多少なりとも会社の評判をきき、資料を見て応募するわけですが、会社は本人の書いた履歴書以外には、本人のことを知りません。そこで、例えば学歴が選択の要因となるのです。

もし有名な会社が求人をすると、多くの求職者が殺到します。この中には、当然ピーチもレモンも存在します。すなわち将来会社のためになる人も、ならない人もいるわけです。

そこで大勢の求職者を面接して選択するには時間と経費がかかりますので、条件をつけます。例えば東大卒に限るとすると、30人に絞られます。そこから10人を選ぶことは、会社側の論理としては合理的と考えられます。なぜなら経験的に優秀な学生の率が高く、レモンもいるにしても、時間と経費を考えると、全員の面接をするより簡単で、大きくははずれないと考えられるからです。こうなると学生が勉強をして、東大に入ろうとすることは合理的な行動ということになります。

このように学歴というシグナルを発することによって、市場の非対称性を克服する機能を果たしていることになります。

ところが厚生労働省はこれを認めません。学歴はおろか、性別年齢すら指定してはいけないのです。しかし罰則がないため、現実には性別年齢の指定は多くの企業がしています。確かに20代の男を採用したいのに、50代や女性が殺到しても、採用することはないでしょうし、無駄足を運ぶだけになるでしょう。だったら初めから20代男性に限るとした方が、市場取引のコストを低くすることができるはずです。

でも、そうすると、今日のような状況では中高年に可能性はなりことになります。ああ、どうしましょう。本質的に難しい問題です。

ところで、あの口うるさい役所でも資格だけは許されるのです。不思義というしかありません。役所が試験をするからでしょうか。

ついでに皆さんにお聞きします。理容師、美容師も国家資格なのですが、はたして必要な資格なのでしょうか。最近ますみママの友達が理容学校に入りましたが、100万級の学費と3年の時間をかけるそうです。私は理容師の資格を持ってない人でも、サービス業としてお客になりたいと思うのですが。ちなみに私のお気に入りの某美容室は、はっきり下手だと確信しています。

美容師といえば、カリスマ美容師が無資格だったということが、週刊誌ネタになったこともありましたっけ。ご意見をお待ちしています。

それはさておき、今度はスティグリッツの「効率賃金仮説」です。

これは不況の時になぜ労働賃金が下がらないか、(下方に硬直的といいますが)、という疑問に対する一つの回答です。

「市場の価格調整メカニズムによって、失業率(非自発的)は0になる」といいますが、現実にはそうではありません。そして、その一番の原因が労働賃金の下方硬直性にあるといわれます。

企業からすれば、賃金が下げられないから、商品価格を下げられない、というわけです。ところが、最近ではデフレ状態のため、商品価格は市場の力でかなり下がってきました。労働市場については、賃下げよりもリストラ(ここでは首切りという意味で使います)と、倒産廃業による強制失業が増大しています。再就職では一般に大幅に賃下げになりますし、今日のような状態では、求人自体がほとんど最低賃金に近いものです。

これでは、労働市場に価格決定のメカニズムがあるとは、とうてい思えないわけです。

さて、賃金の下方硬直性については、労働契約理論などのいくつかの指摘があるのですが、効率賃金仮説は次のように説明します。

企業としては優秀な労働者を囲い込むために、市場価格より高い賃金を払うのだと。高い賃金をもらうと失業した時の賃金低下が怖くて転職しにくくなるし、会社に従順でよく働くようになります。ですから、企業にとっては
、高い賃金が効率的になるのです。

もし、賃金を市場価格に設定すれは゛、転職可能な優秀な人から転職してしまいます。後には転職不能な人だけが残るのです。これは私の家業でも顕著に見られました。

かくして企業の合理的判断によって、賃金は下方に硬直的なのです。労働市場の価格調整機能は不完全ということになります。

ところで、私は思うのですが、経済学者というのは実にたわいもないことを大げさに論じるものですねぇ。こんなの直感的に常識ですもんね。

学生時代私はマーケティングの先生の弟子になりましたが、マーケティング学者というのは実に学会的に地位が低いのです。私の先生はマーケティング学会では日本の第一人者といわれていましたが、経営学会ではマーケティングというと鼻であしらう感じでした。その経営学会も経済学会からはバカにされていました。

確かに経済学が一番大きなテーマ、世界の繁栄と安定をめざすという志があるわけですが、実際のレベルは重箱の隅つつきに終始しているとしか思えません。それが証拠に、未だに新古典派かケインズかの論争に終始しているに過ぎないのですから。

まぁ、これが実験のできない社会科学の限界なのかも知れませんが。


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