底値買いの経済学

 

今日は底値買いで有名な土田オカーサンにお話をうかがいます。

「オカーサンはいつも底値買いに熱心なようですが、心得のようなものがあったら聞かせてください」

「はい、底値買いとは簡単に言えば最低価格で買うことです。しかし、底値買いイコール貧乏ではないのです。本当は深い意味を持つ神聖な行為なのです。ちまたのお金がないから底値で買うのだという噂は根も葉もないものなのです。そこのところが誤解されているのがクヤシー・・・。底値買いは究極の情報戦争なのです。キパッ」

オカーサンは何やら感情的になっていますが、経済学立場でオカーサンの行動を分析すると、真に合理的な消費者だということになります。オカーサンの行動は、言い方を変えると限られた予算の範囲内で、最も満足度(効用)を高めるために、財やサービスの組み合わせを合理的に判断する行動です。そのためにはあらゆる情報を手に入れることが必要になります。

ミクロ経済学では、あらゆる消費者がすべて合理的な買い物をするという前提にたって理論を組み立てています。そのために、すべての消費者が底値で買うという前提になります。コンビニでカップヌードルやフィルムを買う人はいないということになります。これは明らかに現実とは食い違っています。また、かわいいお姉さんがいるお店で多少高くても買う男は多いのですが、彼の満足度は高いのでしょうが、彼の満足度を数字で表すことは困難です。数字で表せないものは無視されるのです。

このようにミクロ経済学では極端に非現実的な仮定の上に理論を組み立てています。

その結果、理論は非常に芸術的に美しくなり、その美しさに引かれて、数学の好きな人たちが研究者になるケースが多いのです。学者の中には工学部出身の人が多いですし、あのマサチューセッツ工科大学なども経済学の殿堂です。

そういえば、京都大学の西村和雄教授が、学生の学力低下を訴えていますが、数学が苦手だから経済学部を受ける学生が多いという日本の現状では、やむをえないかも知れません。学力低下とは別の次元のようです。

さて、そのミクロ経済学の理論は一言でいうと、価格の理論です。需要と供給の一致する点で価格が決まります。つまり均衡価格が決まるのです。もし仮にこの価格が安すぎれば、売り手は売り惜しみをし、買い手は殺到して値を吊り上げるでしょう。反対に高すぎれば、売り手が殺到し、買い手不在のままに見切売りをせざるを得ません。

このように、市場が完全に競争を続けることを完全競争市場といいます。先にも述べたように、これは非現実的なのですが、かなり現実的な場合も例外的に存在します。例えば、株式市場や債券市場、外国為替市場、銀行間のコール市場、それに魚市場などが近い存在です。これらの市場では時間や空間を越えて、価格だけをたよりに取引されますので、限りなく理論どおりの価格決定がされることになります。

もっとも、株式市場でも大手証券会社や大手投資ファンドには相場を動かす影響力がありますので、やはり厳密には理論どおりにはなりません。

ミクロ経済学ではこうして決まった価格は、資源の最適な配分に成功するといいます。

そして、これ以外の価格では、どこかに無駄が出て最適な配分は失敗するのです。例えば、独占企業などは高い価格で売ることができるので、独占利潤を得ることができるのですが、これは資源の最適配分に成功していないので、言葉を変えていえば不公平が存在するので、政府は税金をかけて独占利潤の再配分に努めるのです。

ミクロ経済学における恐ろしい結論は、完全競争市場ではすべての企業は超過利潤が0になるまで競争するということです。これはヤマダとコジマの価格保証無限大競争と同じです。ヤマダとコジマの競争は、消費者が合理的に行動すれば、恥も外聞もなくということですが、完全競争価格つまり底値で買うことができることを意味しています。そしてこの時、ヤマダとコジマの決算書類には、営業利益0と記入されるのです。財務内容や給与体系などがすべて同じならいいのですが、多少でも違うと、無駄のある方が先に営業利益0となり、競争を続けると赤字決算に追い込まれます。ちなみに両社は黒字決算をしていますが、財務内容はヤマダの方がいいようです。

なんだか夢も希望もない結論になってしまうのですが、現実の世界ではあらゆる企業が、超過利潤を求めて、みずから不完全競争を仕掛けているのです。独創的なものを作るとか、イメージ広告をしたり、おまけをつけたり、実は企業活動のほとんどが完全競争を逃れるために行われているのです。

現在叫ばれているネット革命は、ネットの世界では今までの市場よりはるかに情報収集が簡単で、距離の障害がないために、より完全競争市場に近い市場が出現します。そのために底値買いが横行し、恒常的な物価の下落が予想されるのです。

物価の下落といいましたが、専門家に言わせると、よい下落と悪い下落が存在するといいます。よい下落とは、企業努力による競争価格の下落です。一方悪い下落とは、需要減退による下落、すなわちデフレーションによるものです。まあ確かにそんな面もありますが、よい下落も企業のリストラによる雇用の縮小という苦しみが先に現れるわけで、労働市場などの完全競争化が進まないことには、手放しでよい下落とは言いがたいような気もします。

ちなみに北越銀行経済研究所の最新資料によると、昨年から各企業の販売単価の下落はすさまじく、ほぼ40パーセントも下落しているのです。これは私の実感には近いものですが、全産業の平均となると驚きです。高級品が売れず低価格品のみが売れるという傾向は顕著なのですが、物価自体はそれほど下がっているはずもなく、百円ショップや百円均一セールなどの販売単位の切り下げによる単価の下落が大きいのでしょう。

さて、市場による価格の決定は、十八世紀の偉大な経済学者アダム・スミスによって、次のように表現されました。

「価格は神の見えざる手によって調整される」

土田オカーサンの底値買いがとんでもない話にまで発展してしまいましたが、これこそがミクロ経済学におけるエッセンスなのです。そして神の見えざる手によって調整される市場取引を中心に経済を組み立てていこうとするのが、市場経済なのです。資本主義経済といいますが、最近では特に資本主義市場経済ということが多いようです。そして、ベルリンの壁崩壊以来、現在ではほとんど世界中がこの経済圏に属しているのです。

さて、アダム・スミスが出たところで、次回は経済学の大きな流れについてふれてみたいと思います。


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