フリーマーケットの経済学・続編
続編です。
フリマに参加しての第一の感想は、楽しかったということです。
非常に多くのお客様が来てくれましたし、中には買ったばかりの果物をくれる人や、さんざん値切ったあげくにチップをくれた人もいました。共同体社会を共に生きているんだという実感がありました。
市役所のHPのインターネット会議室の「なんでもトーク」に、接客について学生さんが書いています。私も全く同感ですので、話を加えます。
中心商店街の人たちは、昔店を開けさえすれば儲かったと考えていますし、お客は湧いて出てくるものと考えていました。
ところが、その後は下り坂の人生です。下り坂になってわかるのは、今の社会全体にも言えますが、上り坂だったころに正しいと信じられたことが、全て正しくなくなります。誤りになります。全ての方法を改めなければなりません。しかし、長年染み付いた考えはなかなか変えられません。
その昔、焼け野が原だった時代には、今のフリマのような状態だったはずです。その時は売り手も買い手も喜びをもって商売をしていたはずです。明日は今日よりも豊かになれるという希望がありましたから、今日の暮らしが貧しくてもそんなに問題ではなかったと思います。
しかし現在では全く逆になっています。相当の資産や預貯金をもち、不自由なく暮らしながら、資産が減ることや売上が減ることに戦々恐々としている、といったところだと思います。借金に追われている場合には、もっと現実的な危機でしょうが。
いっそ開き直って、何もなくなったつもりで、商売の原点に立ち返って、喜びと楽しみを提供する時間サービス業に徹するべきではないかと思うのです。大量生産品の安価な供給は郊外店に任せて、中心商店街は限定的なもの、珍しいもの、個性的なものを、豊富な商品知識と気持ちのよい接客サービスとともに提供するべきでしょう。
接客サービスというと、プロの接客の教育訓練をイメージしてしまいますが、ハンバーガーチェーンなどのマニュアル接客は論外にしても、あまりに完璧な接客もスキがないように感じて気づまりなものです。
私はそれよりも、行楽地でのアルバイトの若者たちに、参考を見つけることができると思うのです。彼らはほとんどがチャパツですが、心から楽しそうに客引きをしたりサービスをしています。もちろん本人が心から楽しんでいるからでしょう。
都会の生活を引きずって、鎧兜に身を固めて訪れたこちらが、その瞬間に解放され心も軽くなって遊びの世界にいざなわれます。これは教育訓練の結果というより、気持ちがストレートに印象に現れるものでしょう。
だからといって商店主が現実を忘れることは出来ないのですが、忘れたつもりで楽しい商売の復活を目指してもらいたいものです.
それと同時に思うのは、「仕事なら出来ないが、遊びやボランティアと割れきればできる」 という言葉を聞くことがあります。私自身も実感としてよく理解できます。
仕事としては出来ないというのは、仕事は合理的に成果を上げなければならないという意味でしょうが、工業化社会の呪縛のような気がしてなりません。工業化社会においては、コストダウンするべくいろいろと合理化の努力がなされてきました。その結果世界のトップクラスの生産大国になりえたのも事実です。
ところが次に主張されたのは、商業も近代化をしなければならないというものでした。その批判の上にコンビニのようなシステム産業ともいうべき小売業が登場してきました。コンサルタントはこぞって小売業経営に計数管理を導入しようとしました。その結果出来上がったのは、愛想も素っ気もない能面テキパキ店員が並ぶ小売店や、マニュアル接客チェーン店でした。
当然のことながら、この人たちに喜びと楽しみを提供する時間サービス業は不可能で゚す。中心街の小売店はコンサルタントに惑わされずに、原点に立ち返った商売に徹するべきではないかと思うのです。
たった1日フリマに参加しただけで、いろいろと書きすぎてしまいました。