アマルティア・センの経済学

2001年のノーベル経済学賞については、以前に説明しました。最近新聞を眺めていたら、アマルティア・センの名前を何度か見つけましたので、今回はセンの経済学について説明します。

アマルティア・センはインドの経済学者ですが、1998年のノーベル経済学賞を受賞しました。その当時私は、意外と言うか唐突な印象をもったものです。

センの経済学を一言で説明すると、経済学に倫理観を持ち込むというもので、たぶんに哲学的です。哲学的といえば、マルクスの経済学も哲学的なものです。

それに対して、古典派、新古典派は多分に数学的であるといえると思います。非常にすっきりとわかりやすいというのが特徴ですが、ほんとかしらという疑問が残ります。

長らく経済学の世界は、新古典派の市場原理主義が支配してきました。しかし1997、8年にヘッジファンドの攻撃によって、アジアの国々が通貨危機に陥ったことをきっかけに、市場原理主義の暴力、非社会性に対する批判が集中するようになりました。そういう時代の要請として、センの倫理経済学が評価されたわけでしょうし、昨年のニューケインジアン3人の受賞があったのでしょう。

さてセンの経済学については、実は私は何も知りません。ただ、「合理的な愚か者」という著書が示すように、新古典派が前提とする合理的な消費者というものが、実は愚か者であるとして問題を投げかけています。貧困者を救済するのが経済学の目的であるのに、現実は貧富の差が拡大し、一握りの勝者と多数の敗者、それに絶対的貧困者が生まれていることを問題にしています。ここから、倫理、福祉、厚生といった概念を経済学の中に展開しているようです。

似たような主張を、NHKでおなじみの内橋克人氏が、90年代を通じてしていますので、ここで取り上げてみたいと思います。

90年代の世界の大前提は、冷静構造の崩壊によって、世界が市場によって一元的に支配されるようになったということです。これはアメリカの浪費構造による1極支配ということでもあります。

ところがヘッジファンドの攻撃によってアジアが通貨危機に陥ったことが問題となりました。ヘッジファンドは今では悪の代名詞のように聞こえますが、本来マネー資本主義を象徴する存在です。より大きな資本を集めることで、独占的に市場そのものに圧力をかけて、利益をとるという性格のものです。資本主義の究極のスタイルとも言えるものだと思います。

ところがここまでいくと、通貨危機のアジアを救済するにあたり、支援と引き換えに市場化を要求しましたが、急激な市場化が自立困難をまねくことが露呈したのです。

この流れを決定的なものにしたのが、昨年9月のテロです。テロによって、世界の構造の問題、すなわちアメリカの浪費構造を前提に成り立っていたグローバル経済のゆがみ、言い換えれば文明のあり方そのものが問われるようになりました。

世界が市場一元主義と、イスラムに代表される宗教的・民族的原理主義という2つの教義に振り回されることになったのです。

イスラムでは、労働の対価以外の報酬を受け取ってはなりません。人もカネも神が与えたものであり、イスラムの金融機関は利子・利息の概念そのものを禁じています。ですから預金にも利子がつきません。ゼロコストの資金を提供して、リスクも成果も事業家と共有します。基本にあるのは喜捨の考えです。

この点が、利が利を生むマネー資本主義に対するアンチテーゼです。世界市場化への対抗思潮です。

しかしだからといって、イスラムが資本主義にとってかわるということではありません。市場経済をより健全なものにする上で、価値の高い対抗思潮なのです。

冷戦時代には、社会主義がその役割を果たし、年金,、福祉などといった社会保障制度は、共産圏に対抗するために譲歩して生み出してきたものです。それが、対抗思潮がなくなったために、マネー資本主義が燃えさかったのが90年代でした。

今後の資本主義は、もっと抑制された市場経済へと進化しなければなりません。資本主義そのものを、より人間化する方向に進むのではないでしょうか。マネーの暴走を抑える政府機能、環境・資源などを市場に任せない政府機能の強化が必要です。この点では,北欧諸国が自給自足圏の形成に積極的です。

日本は日本モデルをつくらなければなりません。日本の資本主義は、身内資本主義的な、アジア的な遅れた側面と、高度に発展した資本主義経済大国の2面をもっています。後者の市場原理主義で、前者の遅れた資本主義を克服しようというのが小泉改革ですが (竹中サプライサイド理論) 、アジアのIMF支援国で失敗した手法でもあります。

競争セクターと共生セクターが並び立つ多元的経済社会こそが人類の望みであり,必然でもあります。そうすれば 「浪費なき成長」 も可能になるはずです。

以上が内橋氏の主張です。

新古典派の市場主義を批判する人たちは、決まって市場原理主義という言葉を使います。そして、多分に哲学的な主張になります。それはストレートに耳障りがいいのですが、具体的なものは見えてきません。

恐らく市場原理主義に基づく小泉改革が100パーセント実行されると、正しく弱肉強食の社会、不安の社会になるということで、警告を発しているものと思いますが、遅れた資本主義を改革するためには荒療治をしなければ不可能でしょうし、その破壊の後で共生のシステムを構築するのが日本的モデルになるのではないでしょうか。

内橋氏の主張は、氏の言葉を借りると、新古典派に対する対抗思潮として理解するのがいいのかもしれません。というのがエーヤの理解です。

平ちゃんの慶応の同僚の金子勝氏も、セーフネット論を主張して、政権に取り込まれた平ちゃんを『御用学者』と非難しています。それも実に耳障りのいいものです。

批判勢力の主張は安心感がありますが、何も変わらない、変えられないように感じます。今日本の社会のいたる所で意識改革を求めながら、全く意識は改革されないと指摘がされています。それが現実なのではないでしょうか。

 

 


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