オータケちゃんの質問にお答えします。

★経世済民とはなにか。

とりあえず、手元にある大辞泉を開いてみます。
経世とは世を治めること。経世家は政治家と同じ。
済民とは人民を救うこと。
よって、経世済民は世を治め人民を救うこととなります。
確か、江戸時代の武士の教養だったと思いますから、中国の朱子学からきているのでしょう。

★合成のごびゅうとはなにか。

ごびゅうは誤謬と書きます。まちがいという意味です。江戸時代から使われているようですから、日本語もしくは中国からの直輸入でしょう。
但し、私も経済学の中でしか見たことがありません。

言葉の説明はそれだけしかできませんが、話を続けます。
個人個人が正しいことを選択した結果、全体は正しくない結果になる、ということはかなりショッキングな矛盾です。アダム・スミスは個人の利己的な合理的な行動が、市場のメカニズム、神の見えざる手によって調整され、効率性を生み出すと主張しているのですが、その結果が間違いだとすると、どこかに矛盾があることになります。これは個人が豊かになりたいと願うことと、社会が豊かになることは、相容れないことを意味します。これでは経世済民とはいえません。

いったい何が問題なのでしょう。
アダム・スミスは市場価格の理論を打ち出し、それが現在でも脈々と受け継がれているのですが、それだけでは正しくないことが現在でははっきりと証明されています。

いくつかの問題が挙げられますが、1つはアダム・スミスの時代は、国家経済だったのが、現在では国際経済になっていることです。そのため、市場経済は不況や恐慌をまねき、ひいては戦争を回避できなかったという点です。

もう1つ上げれば、環境です。個人が豊かさを求め、社会が成長すると、地球という限られた世界では収まりきれず、環境問題に突き当たります。
すなわち、市場価格に環境問題解決のコストを含めて決定しないと、問題を解決できないのです。具体的には政府が税金をかけ、それを問題解決のためにまわすわけです。

極論を言えば、限られた地球という社会全体の恒久的な豊かさの実現には、成長を求めてはならないのかも知れません。

ところがご存知のように、市場主義経済をとる国のほとんどが、民主主義国家です。民主主義では選挙で選ばれた政治家が政策を行うため、より高い経済成長を求めてしまいます。また競争する市民は、より豊かになりたい
いう期待のもとに頑張ります。となると、やはり壁にぶつかる運命なのです。

この矛盾を早くから指摘しているのがマルクス経済学です。
ここでは国家が計画的に最適な配分を考えますから、壁にぶつかりません。
しかし一方で国家が計画するために、官僚組織が肥大化し、競争がないために効率が悪く、結局自滅してしまったことは記憶に新しいところです。

結局スミスの完全競争理論が完全に行き詰まった1929年の大恐慌に、ケインズが彗星のごとく登場し、政府による有効需要の喚起、具体的にいえば、公共事業による失業対策によって、危機を乗り切ります。これがマクロ経済学です。

その後、世界はケインズのマクロと、マルクス経済を目指す共産主義の時代を迎えます。いずれにしても、大きな政府です。

そしてそれは東西の冷戦を生み出しました。その結果は、ご存知のように、共産圏の崩壊です。一見、資本主義市場経済が勝ったように見えますが、実は市場経済陣営も、マクロ政策の限界、すなわち大きな政府による財政赤字に苦しみ、共産圏諸国が市場経済に乱入するやいないや、マクロを捨てて、規制緩和、小さな政府をめざす流れになったのです。

いわば、スミスの経済学が古典派と呼ばれていたことから、先祖帰りをして、新古典派の時代になったのです。ですから現在の学会は、主流の新古典派とその限界を指摘する諸説が入り乱れている状態のようです。

合成の誤謬の説明が、なにやら延々と書いてしまいましたが、それだけ重要な意味をもつ言葉なのだろうと思います。ですから、いまどきの日本人に読めない字がそのまま、いわば専門用語化してそのまま使われているのだろうと思います。


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