経済政策と合理的期待

最近、この道場は時事のニュースばかりになって、初級経済学から離れてしまった、とのご指摘をいただきました。反省をしつつ、今回も時事から始めます。

小泉内閣が改造を発表しました。銀行への公的資金注入をめぐって、竹中経済財政担当相と柳沢金融相が対立していましたので、去就が注目されていましたが、大方の予想通り柳沢氏の更迭という結果でした。

しかし驚いたのは、竹中氏が金融相も兼任することになったことです。小泉首相が竹中氏を信頼しているのは良くわかるのですが、彼は学者であって政治家ではありません。経済財政担当のようにスタッフ的なポストならばともかく、金融庁は銀行を束ねる役所です。異なった政策で役所を動かせるかどうかは未知数です。

そんなことは百も承知で任命したのですから、小泉首相としては、政策のブレをなくすことを重視したということでしょう。なにしろ、エコノミストが10人集まれば10通りの分析があるというのが通説なのです。

さっそく外国為替市場は円高に振れたようです。不良債権処理が進んで構造改革が進み、日本経済が復活するという筋書きで円買いになったようです。

このように経済学の世界では、常に各経済主体が予想に基づいて行動することによって現実が動いていきます。ですから、予想というのが非常に重要になります。予想というのは期待ともいえます。

経済学では、合理的な経済主体(個人)が、あらゆる入手可能な情報を手に入れて判断するという前提がありますから、この期待も単なる期待ではなく、合理的期待といいます。

この合理的期待ということを意識すると、経済政策の効果は限定的になります。

例えば、現在のような状態で減税政策をとれば、必ず将来の増税によって財政を均衡させなければならず、増税を意識した個人は、減税によって浮いた資金を将来の増税に備えて蓄えると考えられるから、景気対策としての効果はない、という結論になるのです。

また、ケインズ的赤字財政支出政策は、短期的には有効でも長期的には無効であるという主張どころか、短期的にも無効であると結論づけています。国債の発行は将来の増税もしくは財政支出削減を予想できることから、効果が消滅するというものです。

恐るべき結論ですが、これが新古典派主流派経済学の中でも、新リカード主義と称されるグループの、最もラジカルな結論です。何もするなということですから。

合理的期待形成仮説というのは、「風が吹けば桶屋が儲かる」式のこじつけ的な面があるのですが、政策当局が政策の効果を見定める場合に、人々の期待形成に注意を払わないのは問題であるとしたルーカスの批判は、説得力があるものです。

さて、期待形成を意識すると、政府が国民に信頼されているかどうかということによっても、政策の効果が違ってくるということになります。

小泉政権発足当時の80%を越える国民的支持があった時と、森政権末期の状態では政策の効果が全く違うということです。もちろんマスコミの取り上げ方が全く違ってくるわけですから、マスコミによって作り上げられる世論は違うのが当然です。そこで支持率が30%を割るようになると、政権交替が騒がれるのです。

こうして経済政策を考えていくと、政治、それも民主主義政治の問題にぶち当たることになります。

それは、常に人気投票によって選ばれた政治かによって政治が行われるということです。そこではアメを振りまく政治家ばかりが当選し、ムチを打つ政治家はなかなか日の目をみませんから、常に高めの経済成長を誘導し、公共事業を乱発して、財政赤字を招くということが法則のように一般化しているのです。

それではなぜ公共事業が効果をあげなくなったのでしょうか。

これはよく言われていることですが、公共事業としては土木建設関係が一番波及効果が大きいと言われてきたのですが、日本の場合土地収容費用が法外に高いことが問題だと言われてきました。建設工事の場合、建設業者が機械を買い、資材を買い、労働者を雇い、波及効果が大きいのですが、土地は地主の懐を潤すだけですので、事業予算の多くが漏れてしまうというのです。

そもそも必要以上に公共事業を拡大しすぎたようです。工事自体の経済効果はあるにしても、実態以上に業界を膨らませた結果、それを維持することが困難になってきたのです。その結果、必要のない道路や施設を作り、その維持すらもできない状態になったのです。

これを経済学的に解説すると、過大な政府支出が民間投資をクラウディグアウトしていると言います。

財政支出は金利の上昇を伴うため、民間には高金利のための投資抑制という結果が現れます。このことは現在のようなゼロ金利下ではあてはまらないようにも感じますが、現在の状態はマイナス金利がふさわしいという指摘もあるわけですし、例え低金利であっても現実に金融機関の融資は受けられないという結果があるようです。また、バブル崩壊当時のことを思い出していただけば理解できると思います。

もっと分かりやすい例をあげると、バブル期以降、財政に余裕のある自治体は、自治体自信もしくは第3セクターで温泉センターを作りました。その結果、市民としては安くて新しい温泉に気軽に入れるようになって喜んでいるのですが、民間温泉業者は苦境に立たされました。力のある業者は、より巨大な高級ホテルに生まれ変わりましたが、実は現在銀行の不良債権になっているようです。力のない業者はそのまま安楽死への道を歩んでいます。

結局、政府財政支出が膨らむと、政府公共部門が肥大化し、民間部門を縮小し、恒常的な財政難に陥るのです。

こうして現在、日本は大きすぎる政府を小さくするための構造改革に取り組んでいるわけです。

 

 


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