ゆでガエルのお話

ゆでガエルのお話をご存知でしょうか。

五右衛門風呂に入っていたカエルが、「熱くないか」と聞かれて、「まだ大丈夫」と答え続けて、とうとうゆでガエルになってしまったというお話でした。

日本経済は大丈夫かと問われ、まだ大丈夫と言い続けています。日本には1400兆円もの個人金融資産があるからとか、巨額の対外債権国だからとか、技術力があるとか。

銀行のペイオフ解禁の話も、大丈夫かと聞かれて、柳沢善金融担当大臣は「問題ない」と答え続けてきましたが、竹中新大臣に代わったとたん、資産査定をして問題がある銀行は国有化も辞さず、ペイオフは延期となりました。

この間どれほどの時間の差もなく、金融庁という官庁は継続しています。代わったのは大臣だけです。人がひとり代わっただけで、現状の認識がガラリと変わってしまいました。この間まで、金融機関に問題はないと言っていたのに、金融庁の検査と銀行の自己査定で、不良債権の額に大きなへだたりがあることとも明らかになってきました。

私たちは、どちらが正しいのかは知る由もありませんが、もし竹中氏がいうように、銀行の財務は危機的状態であるとすれば、柳沢氏の在任中は、大臣も金融庁も国民をだましてきたことになります。

それはちょうど、カエルが湯加減を聞かれて、「まだいい、まだいい」と答え続けていたことと同じかもしれません。もちろん本当にまだぬるいのなら、何も問題はないのですが、もしやせがまんだとすれば、もう限界だと感じた瞬間に、茹であがってしまうのです。

例えば個人金融資産にしても、当初は1200兆円ということでした。それがいつのまにか1400兆円に膨らんでいます。もちろん従来の利子環境ならば、自然に増えたでしょうが、最近はゼロ金利です。

また、金融資産のうち国内株式分はどう考えても何分の一かになっているはずです。生保の破綻も影響がないとも考えられません。にもかかわらず、1400兆円あるから大丈夫というのは、本当のことを意図的に隠しているのかもしれません。もしそれが今では半分の700兆円しかないと発表すれば、この国は破産するのではないかと、パニックを起こしかねません。もちろん国債は暴落するでしょう。その国債の多くは金融機関が保有していますから、金融機関もパニックです。だから、どんなことがあっても真実は隠しとおさなければならない、とも考えられます。

また対外債権にしても、もちろん債務よりははるかにいいに決まっていますが、債権があるというだけで、金が返ってくるというものではありません。アメリカの国債にしても、日本が売りに出せば暴落するかもしれませんし、途上国への債権は基本的に援助です。

つまり資産といわれるものの多くが、全てがうまくいけば資産に違いないという性質のものかもしれません。

私たち中小零細企業の財務にしてもそうなのですが、今日のようなデフレの元では、代表的な資産である不動産は、課税当局の評価にかかわらず、換金できませんし、商品も同じです。ところが代表的な負債である銀行借り入れは、額面通りに存在し続けます。確かに金利は低いですが、債務免除などは大企業だけの話です。

同じことが国にも当てはまるとすれば、債権は当てにならず、債務である国債は確実に償還しなければなりません。もちろん国は紙幣を印刷すればすむのですが、これはインフレ以外の何ものでもないでしょう。

ですから、なんとしても構造改革を進めて、活力のある経済を再生して、財政を再建しなければならない、というのが改革派の主張です。ところが、いわゆる抵抗勢力の多くは、自ら血を流すのは絶対反対ですし、一部にいたってはあいかわらず、もっとよこせと主張し続けています。

デフレを阻止しなければ、日本経済がダメになるという主張はもっともですが、世界的な供給過剰、デフレの中で、効果的な阻止策があるわけでもありません。小渕内閣の時になりふりかまわぬ景気対策を打ちながら、ほとんど効果なく、国債残高のみを急増させたという事実を忘れたかのような主張は、責任ある人のものとは思えません。

今の景気さえなんとかすれば、国家財政なんかはそのうちなんとかなるだろうという甘い考えで、「まだ大丈夫」を繰り返すのは、まさしく「ゆでガエル」症候群に他ならないと思われます。

最近発表された総合デフレ対策では、銀行の不良債権処理を進めて、自己資本が不足すれば国営化する。再生可能な企業を救済するために産業再生機構をつくる、ということがメインになっていました。

昔から政官業のトライアングルが自民党政治の成功の秘訣とされてきましたが、今日その限界が明らかになり、構造改革を迫られることになりました。業に関しては、総合デフレ対策でいいとして、問題は政と官についても同時に着手しなければ、およそ国民の理解は得られないと思います。

政については、金権汚職というモラルの問題は当然ですが、それだけでなく議員定数の半減というような極端なことも、率先して行うという姿勢が期待されます。

また官については、税金の投入されている組織をいかに整理して、小さな政府を実現するか、そして規制緩和を進めるかを、具現化してもらわないといけません。先頃、経済特区構想の募集がありましたが、結局そのほとんどが実現不能という結論になってしまいました。特区構想というのは、そもそも通常実現不能なものを可能にすることが目的だったはずですが、結局官僚は一歩踏み出すことを拒んだという恰好になりました。

このように権力を持つ側の、政治と官僚が一歩も踏み出さずに、業界、民間だけに痛みを押し付けようという姿勢では、構造改革は一歩も前に進まないのではないでしょうか。

いい湯だなぁ、と思ってゆったりと浸かっているうちに、周りにいたはずの大勢の人たちはみんないなくなってしまった。慌てて立ち上がろうとしたら、足が自由に動かない。見れば湯に浸かっている肌が真っ赤になっている。そんな状態になりつつあるのかもしれません。いわゆるキャピタル・フライトです。資本はみんなどこかへ高飛びです。もはや足腰の自由を奪われたお年寄りだけが、タオルを頭に載せて、薄れる意識の中で、極楽極楽とつぶやいている、そんな恐怖のシーンはご免こうむりたいものです。

 

 


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