ケインズの経済学

前回はアダム・スミスの登場までお話しましたが、重要なエッセンスを忘れていました。

財市場(物)で均衡価格が決定されるのと同様に、労働市場でも市場のメカニズムによって、均衡価格が決定される、というものです。

例えば不景気になると、需要が不足して物の価格は下落します。一方企業は仕事が減少するので、労働市場でも単価が下落します。単価とは時給と考えていいでしょう。すると、単価が下落したところで均衡するわけですから、労働市場の需要量と供給量は均衡します。その結果、失業は0ということになります。現実に失業者が存在するのは、自発的失業、すなわちよりふさわしい仕事を求めて、自ら職探しをしているものにすぎないというのです。

このように、古典派の経済学では、市場のメカニズムのおかげで、財市場も労働市場も常に均衡しているという大原則が存在すると主張されるのです。その結果、政府は景気対策などを考える必要はないということになります。

ところがこの説明を聞くと、そんなバカなと思うでしょう。あまりに現実離れしているように感じられるはずです。

現に1929年に大恐慌が起こると、失業者が街にあふれました。ここでさっそうと登場したのがケインズだと前回言いました。ではケインズの主張はどんなものなのでしょう。

まず大前提として、市場は短期的には均衡しないと主張します。
例えば、不景気で経営が成り立たなくなると、企業は給料カットをするより先に、人員カットをするので、必ず失業者が出るでしょう。その結果社会は不安定になるので、政府が対策を立てなければならない。その場合、景気が悪いのは需要が不足しているのだから、政府が需要を作り出せばよいというのです。

ケインズ政策を採用した政府は、失業者を集めダム工事をしたと言われていますが、それだけでなく極端な話、庭に穴を掘らせ、出来たら埋めさせ、また掘らせるということまでしたといいます。つまり、とにかく失業者に労働賃金を与えまくったのです。その結果、まもなく景気は立ち直り、それ以降ケインズ政策は経済政策の王道を歩むことになりました。特に民主主義国家では、政治家の人気取りの格好の材料になったのです。

この話を聞いただけでも、皆さんは感じると思います。古典派は理論的すぎて現実的でないし、ケインズ派は現実的すぎてめちゃくちゃだと。

学会でもこれ以降、常に両者の対立が続きました。当初はケインズ派には政府が加担しましたので、優勢でしたが、学会では常に、ケインズ政策は緊急時に限るべきだと古典派が理論的に攻撃し続けました。これ以降の古典派は、新古典派と呼ばれています。

それに対して、ケインズ派は特に労働市場は短期的に均衡することはありえないと主張しつづけました。例えば、労働組合が存在するために給料は固定されているとか、実際の企業では均衡価格より高い給料を労働者に与えて、労働意欲を高めているとか、財市場でも、毎日の野菜や魚の価格に応じてメニュー価格を変更するようなレストランは存在しない。メニュー価格は一定になるとか。

その後、イギリス病や、1980年代のアメリカの財政大赤字などの苦しみから、ついに政府もケインズ政策から、古典派経済学、すなわち小さな政府をめざす方向に大転換し、今はケインズ派は死んだようになっています。

おそらく皆さんも直感的に、小さな政府を目指しつつ、社会的弱者の救済や、緊急時の不況対策だけは力をいれるのが妥当だろうと感じていると思います。実はほとんどの学者がそう考えているのでしょうが、何十年間も不毛の争いを続けているところに、経済学の悲劇があるのかもしれません。

あえて学者の弁護をするならば、学者とはそういうものなのです。仮説を立てるのは簡単ですが、実証することは社会科学の場合、実験室がないので難しいのです。

例えばラッファー曲線というのがあります。税収を上げようとして、税率を上げていくと、ある時点を過ぎると、税収は急減する。というもので、ラッファーが主張したものでした。税率が高すぎれば、納税逃れが横行しするだろうことは、容易に想像できます。しかし、これを実証するデータを提出できなかったため、学会では一笑にふされ、ラッファブル曲線として笑われたのです。

ところで、小渕さんが三顧の礼で迎えた平成の高橋是清、宮沢蔵相は、後れて来たケインジアンと呼ばれています。多分に心理的効果を狙った人事だということがわかるでしょう。


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