賢者は海へ行き、聖者は山へ行く

誰の言葉なのだろうか。

私は開高健氏の著作でお眼にかかって以来、気に入って借用させてもらっている。

開高氏は釣師だったから、この言葉の意味はストレートに理解できる。

海釣りは、たとえ雑魚釣りだとしても、必ず食卓を賑わせてくれる。余程のことがない限り、オケラということもないだろう。魚だけではない。イカ・タコやエビ・カニといったスターたちもいるし、貝も海草もある。食べ物の宝庫である。

一方の山はどうかというと、せいぜいイワナ、ヤマメの類にサワガニくらいだ。あとは山菜、きのこ、木の実というところか。まあ、個人的な好みを別にすれば、料理の格が違うともいえるだろう。海は絢爛豪華。山は質素倹約というイメージだ。

ならば、やはり計算高い人たちは海へ行くはずだ。それが賢者というものだろう。

ところが人間の中には、粗食しかないとわかっていても山に行きたがる人がいるものだ。もちろん、かくいう私もそういうひとりに違いないのだが。

山には不思議な安心感がある。包み込まれるような安心感だ。山で食べるものには、生きとし生けるものの生命感が宿っているように感じて、食べることに感動さえ覚えるものだ。

昔から言うように、「仙人は霞を食って生きている」という言葉が、実感として理解できるのである。もちろん霞だけでは生きられないのだが。

山の水には体を清めてくれるような不思議な力があるような気がしてならない。山菜には生命力、きのこには魔力を感じる。

倉本聰氏が言うように、恐らく人間は森から生まれ出たのだろう。森での狩猟、採集の暮らしから、作物の栽培をめざして、川を下流に下ったに違いない。そして、やがて適当な場所をみつけて住み着いたはずだ。それは農業時代を意味している。

やがて他地域との交易がさかんになると、より交通の便利な大河や、河口付近に集落を形成するようになったはずだ。そしてそこでは、多くの人手を利用して工業が始まったのだろう。こうして近代都市が生まれ、工業時代になるのである。

こうして考えると、確かに繁栄は上流から下流へと移っているのである。これを、革新的な人が新天地を求めて下流に下り、成功する歴史ととらえることもできるが、別の見方をすれば、伝統的な暮らしを守った人たちが、時代に取り残されていく歴史ととらえることもできるだろう。

伝統的なスタイルを守ることは、えてして失われゆくもののロマンの対象となるのだが、滅びの法則でもあるのだろう。

例えば、あの山岳地帯に生息するイヌワシなどは、昔話にも恐ろしい存在として登場するのだが、現在では絶滅が心配されている。それは、彼らがあいかわらずノウサギやヤマドリといった大型の野生生物を狩して生きているためである。山が開かれ、野生生物が減少した現代では、ひとつがいのイヌワシが繁殖するためのテリトリーが、広大なものにならざるをえない。そのために繁殖数が減少してしまうのである。

もし仮に、イヌワシが伝統的な生活スタイルを捨てて、例えばカラスを襲うとか、野良ネコを襲うとか、あるいは歓楽街のゴミをあさるといった変化をしたならば、恐らくは大繁栄するだろうし、その場合には孤高の王者というイメージが消えて、トンビ程度の評価になるだろう。それを堕落と呼ぶこともできるだろうが、進化、適応と呼ぶこともできるのである。そして紛れもなく繁栄を意味するのだ。

山の生活は確かに、伝統的な保守的な、時代遅れなイメージを伴うが、それは一方では哲学的で孤高なイメージをも伴うものである。

ゆえに山をめざすものは聖者たる資格を持つものである。

山の男といったら頑固親父であり、高倉健や田中那衛を思い浮かべるが、海の男といったら加山雄三である。明るいのである。もてるのである。かっこいいのである。ゆえに山の男は嫉妬する。しかしマネはできないのである。そして、やっぱりマネする気はないのである。山の男は無口に酒をのむのである。

こう書くと、やはり山の男は部が悪い。しかし山の男は、精神の格調だけは失わないのである。

清澄房無言は山にこもっている。ゆえに孤高である。無口である。だが俗世に残したエーヤには、海を目ざして欲しいと考えている。果敢に挑戦して欲しいと願っている。だが、決してそれを口にはしないのだ。

戻る