大往生に乾杯
俗世のエーヤの住む街には、90歳を超えてなお現役の開業医がい.る。なじみの患者しかかからないとは思うが、風邪かなと思って受診すると、いつも決まって、やさしい声で、
「どうしましたぁ ?
はい、あーんして・・・風邪ですよ。お注射しましょう。はい、お尻だして・・・」
と言って、でかいビタミン注射をするのだ。そして、
「お風呂はだめよぅ・・・水分はたくさんとってくださいね、番茶はいいですよ」
すると、ベテランの看護婦さんが、
「ポカリスエットがいいわよ」
いつも完璧に同じである。患者は自分で見立てて、薬をもらいに行くようなものである。これでも医者がつとまるのだろうか。みんなが不思議に思ったが、それでも患者が行くのである。それはなぜか。おそらくは「癒し」があるからではないかと考えていた。
ところがその先生が、つい先日突然に亡くなられた。
聞くところでは、1月12日に15人の患者さんを診療し、13日は日曜日ということで、遅くまで寝ていたが、朝ご飯を食べて、具合が悪いからということで再びベッドに入ったそうである。そしてごご3時頃見に行くと、すでに息をしていなかったということであった。
死因は心筋梗塞であった。
報せを聞いても、何せ超高齢である。別に驚くにはあたらないと平然としていた。息子さんたちはみんな遠くにいるということで、集まるのに時間がかかったのだろうか。かなり遅くなって「お告げ」がきたので、葬儀とお斎に出席した。
無言はお年寄りが天寿をまっとうすることには特に関心もないのだが、なにしろ超高齢である。無言がものごころついた時にはすでに開業医であり、以前に日赤の院長を経験していること、出身は九州であることなどから、先生の人生の前半はいったいどうだったのだろうか、との好奇心がわいてきたのである。
葬儀会場は祭壇を白い菊で埋め尽くし、両脇から後まで一面に生花が埋め尽くされ、それは見事なものだった。
東大医学部第二内科の医師と、日赤病院長を筆頭に、そのほとんどが医者のものだった。本人だけでなく、喪主の長男も病理学の権威で62歳、三男も臨床の医者である。医師会オンパレードになるわけである。
挨拶にたった喪主は、先生に似てとても物腰が柔らかく、上品な人であった。
先生は東大医学部を卒業され、従軍後、長岡の関原で診療所を開き、その後日赤の院長を務め、44歳で開業をし、以来40年間元気に診療を続けてきたということである。戦地はニューギニアであり、生きて帰ったのは1割もいなかったというから、まずもって親父は運が強かったと強調された。
さらに、息子として90歳も超えた親父がいつまでも開業をしていていいものだろうか、といつも心配し、正月に顔を合わせるたびに、スピーチをしてもらい、理路整然とした話し振りに安心して一年をスタートするのだとも語った。
内科医というのは、自らが健康で長生きをすることによって、患者に安心感を与え、先生の言うことを聞いていれば健康でいられると信じさせることが務めであるから、その点では親父を尊敬しているとも語った。
実際先生の健康法には驚かされるばかりである。
毎日夕方5時半になると、医院から出て、伸びをしおもむろに散歩を始める。どれくらい歩いていたかは無言は知らないが、少し前には5kmも歩いていたというから驚きである。
料理は頭にいいからということで、自分で食べるものくらいは自分で作らされている。もっともこれは奥さんの命令によるらしいが。
そして、無言は町内会の懇親会で同席するのだが、先生はむろん一番上座の真中の指定席に座るのだが、乾杯して間もなく、最初にお酌に廻るのが先生なのである。一番下座まで来て、杯を薦め、自分も実においしそうに飲むのである。
決して威張ることもなく、腰の軽さ、物腰の柔らかさ、人当たりのよさ、そして理性的な語りと全く高齢を感じさせなかった。
無言はそのようなことを喪主に語り、親父似のやさしい紳士は、にこやかに聞いていた。
決して葬式だからと、しんみりすることなく、会場のほとんどの人たちが、大往生を遂げた充実感といったものに浸っていたように思えた。
いわば「大往生おめでとうございます。人間として理想的な死に方に感動し、私もあやかりたい」といったところなのだろう。
無言としては、開業当時の本町が一等地としてにぎわっていたなどという話にも感心があったし、44歳で日赤の院長をやめたという話に、現代の日本社会とは違う活力を感じたのであるが、それはまた機会に語ろうと思う。
まあ、とにかく、「大往生に乾杯
! 」
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