「幽玄の世界」といったら何を思うだろうか。
「幽玄」という言葉を辞書でひくと、「趣が奥深く、はかりしれない様」と記述されている。
これからイメージされるのは、夕暮れの森であろうか。
ところが、世間でよく使われる「幽玄の世界」は、能の代名詞である。
例えば、「昨夜、悠久山で薪能が行われ、およそ1000人の観客が幽玄の世界を堪能しました」 という具合である。
能が極めて様式化された少ない動きによって、奥深いものを表現しているということであろう。
無言は若かりし頃、謡曲の師匠に入門したことがあった。下の写真はその師匠が薪能に出演した時のものである。
いかがであろうか。
しかし、そのことはここでは本題でない。
先日、その師匠の母上を病院に見舞った。母上はアイさんといい、齢90を超え、老人特有の病気になられたということであった。本人の言葉を使えば、「頭の中におっきい穴が空いた」という状態である。
アイさんは、もともと速射砲のようにしゃべる、頭の回転の速い人だったが、老人病院のリビングにいた大勢のおばあちゃんの中では、一番しっかりしているように見えた。
無言のことはもちろんわからなかったが、無言の祖父の名を語ると、懐かしそうに子供の頃に一緒に遊んだ話を始めた。アイさんは、子供の頃から評判の悪ガキだったようだ。浦村に生まれ、3人の兄は皆おとなしく、妹もおとなしかったが、自分だけが鬼っこのようで、男の子には泥ダンゴを投げつけ、信濃川でよく泳いだという。
お元気な頃を彷彿させるよどみない語りで、無言の質問に答えていった。最近のことは全くわからないのだろうが、昔のことなら完璧である。
無言はしみじみした思いで、師匠の奥方に報告した。ところが、奥方が言うには、「ああ、それはみんなフィクションなのよ。初めて聞くと本当かと思うけど、いろいろな断片が組み合わされて、次から次へと話が変わっていくのよ」
なんと、フィクションだったのか。そういえば、無言の祖父は長岡に嫁入りしてから出会ったはずで、子供の頃から知っているはずはないのだ。
あんなにしっかりした語りで、全てフィクションを語るとは、直木賞作家にもなれそうである。
それにしても、頭の中に穴が空くということはどういうことなのだろうか。これこそが、幽玄の世界なのではないか。帰りの道すがら、無言は能の世界に浸ったように、夢見ごこちで歩いていた。
とい