聖母愛児園というところをご存知だろうか。普通は知らないのではないだろうか。無言はもちろん知らなかった。
だいたい聖母などという言葉は乳臭い感じがするし、福祉というものは見たくないという気分がするのだ。それは無言だけのことではないと思っている。
ところが、訳あってここを訪問することになってしまった。とはいっても、別に表敬訪問するわけではない。ただ単にこちらの都合で、手元に余っている衣類を寄付することにしたからだ。福祉畑のスペシャリスト、パパラギ探険隊の林さんに、もらってくれるところはないかと聞いたところ、ここを紹介してくれたというわけだ。
さて無言は、小雪の舞うある日の夕方になって、ようやくここを探し当てて訪問した。小路の奥まったところに門があり、そこで車をおいて、雪道を踏んで、ようやく園の玄関にたどり着いた。
玄関の隣に事務所があり、無言が入るのを見た女性が立ち上がったところをみると、さっそくに玄関に出迎えてくれるらしい。
案の定、無言が玄関で名乗ると、スラリとした瞳の大きな美人がにこやかに出迎えてくれた。
先日訪問した老人ホームでは、初老のオジサンが迎えてくれたのだが、決して感じが悪かったわけではないが、用件さえ伝わればそれ以上の関心はなく、荷物をひたすらに運んですぐに退去したものだ。
ところが、今日はいきなりの美人なのである。それもにこやかで、実に上品な物言いなのである。その美人は「速水です」と名乗った。
無言が荷物を降ろすと告げると、「雪で台車が使えませんから私も行きます」と言ってコートを手にとった。無言は、こんな雪の道を、しかも小雪のちらつく中を運ぶのはやだなぁと思っていたのだが、この一言で急に嬉しくなって、小走りで車に戻った。
それから、無言と速水さんは荷物を担いで雪道を何度も往復した。
無言が最後の荷物を運ぶと、速水さんは「お疲れ様でした。どうぞお上がりください。せっかくおいでになったのだからご案内します」と言って、応接室に案内した。
無言は吸い込まれるように後に続いていた。
コーヒーを飲みながら、応接室のソファで向かい合い、速水さんは施設の説明をしてくれた。
説明によると、この施設はドイツ人宣教師が始めたもので、キリスト教系のカリタス会が経営していること。赤ちゃんの施設は県内にここしかなく、定員30人をオーバーして受け入れていること。子供の施設は県内に5ヶ所あること。赤ちゃんの入所理由には流行があり、以前はお母さんの蒸発によるもの、その後は未婚の母、そして最近では家庭内暴力を見かねて民生委員から相談されるもの、それと不況による地場産業の倒産廃業で、両親が行方不明になったケースが多いという。
聞いていてだんだん暗い気持ちになってきた。しかし速水さんは言う。
「でも、赤ちゃんはまだいいんです。里子に欲しいという方が大勢いらして、順番待ちの状態なのです。大きくなってクセのついた子や、障害児が結局残ってしまうんですね」
なるほど、そうだったのか。無言には新鮮な驚きの連続だったが、それよりも最大の驚きは、速水さんの大きく澄んだ瞳のなかに、吸い込まれていくような、全身の震えを久しぶりに感じたのである。
その瞳は無言の中学時代のあこがれのマドンナM子に似ていた。
年のころは30代前半だろうか。間違いなく左手の薬指にはリングをしている。見事に整った目鼻立ちと、やさしさをにじませる微笑。落ち着いた品のいい物腰、丁寧な話しぶり、ほほ完成された女性の美しさをたたえていた。
時おりからみついてくる子供たちにも、やさしく接するだけで子供たちは素直に従った。正しくここでの聖母のような存在に違いないのだ。
無言の目には、速水さんの美しさが、いちだんと透明感のあるものに思えてきた。そうだ、触れてはならない神様のお使いに違いない。
速水さんは、施設の中を順に回って、ひとつひとつ丁寧に説明をした。その説明には一部のよどみもなく、頭のよさを予感されるに十分だった。
しかし、無言にはそんなことはどうでもよかった。応接室での1.5メートルの距離が、ここでは0.5メートルに接近するのである。無言の目には、室内の様子よりも速水さんの瞳が、均整のとれた唇が、モナリザのような微笑が、しなやかなロングヘアが、フラッシュシーンとして焼きついていた。
こんなにもすばらしい人がいたなんて。無言も山を降りて、俗世に身をおこうかと考えさせられてしまった。
丁寧にあいさつをし、玄関でにこやかに見送られて、無言は夢見心地で雪道を歩いた。
「こんな有頂天の時には必ず悪いことが起こる」 それが無言の人生経験から得た教訓である。暗くなった小路を、車をぶつけないように細心の注意をはらいながら、無言は施設を後にした。
無言の一言
あんなにも美しくすばらしい女性がいるはずはない。これはわなである。おそらく、私生活ではものすごくだらしないとか、浪費家でサラ金地獄かもしれない。いや、そうに違いない。少女時代から、周りには男が集まってきたに違いない。好きなようにあしらえたはずである。そんな恵まれた環境の中で、精神がまっすぐ育つはずはない。きっと、男を上手に操り、利用してきたはずなのだ。そうなのだ。すばらしい人に見えるのは、言わば商品としての演出なのだ。水商売の女と同じはずなのだ。そうなのだ、そう・・・・なの・・だ・・。ううう・・・。今宵は酔いが深い。
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