寺泊の老人ホームを訪問した時のことである。
「目の前が一面の海で、風光明媚でいいところですねぇ」
冬の日本海特有の鉛色の空の下で、海がエメラルドグリーンの広がりをみせる窓の景色をみて、無言は言った。
窓を背にした所長らしきオジサンは、つまらなそうに答えた。
「今日はそんなに悪い天気じゃないですが、悪い時はひどいもんです。魚屋さんがなければ、寺泊なんて誰も来ませんよ」
確かに海辺の田舎町というのはどこでも、夏の一時期をのぞいては、死んだようにひっそりとしているものである。
しかし、こと寺泊に関しては、件の魚のアメ横を中心に、水族館あり、美術館あり、ホテル・旅館あり、とかなり通年で人を集めているという印象である。
「寺泊はたいしたものですよ。隣の出雲崎なんかは天領の里として栄えたなんて言われても、夢の後ですもんねぇ」
無言が言うと、さすがにオジサンももっともだという顔でうなずいた。
出雲崎が栄えたのは、江戸時代である。「下流は上流を駆逐する」という論理を主張する無言としては、出雲崎がなぜ衰退したのかということに思いをめぐらさなければなるまい。
出雲崎が天領であったのは、いうまでもなく港町だったからである。それも同じく天領であった佐渡の金山から金を陸揚げした港だったからである。にぎわう港町だったために北前船も寄り、さらに賑わったのである。
ちなみにその頃は寺泊は芸者の町だったようである。もちろん出雲崎の奥座敷ということであろう。この歴史はその後、岩室の温泉芸者へと続くらしいのだが、ここでは関係ない。
明治時代になると、罪人を集めて劣悪な環境で掘ってきた佐渡の金山は衰退することになり、金の荷揚げ港としての出雲崎は、その地位を失うのである。
この時点で、出雲崎は最下流の港町でありながら、「上流の思想」に支配されていたことが予想されるのである。今風に言うならば、地価の高騰、人件費の高騰、旦那様意識などである。
言い方を変えれば、過去の成功体験がその後の変化への対応を困難にしたとも言えるのである。恐竜が大きくなりすぎて滅んだことと同様である。
ところが寺泊には、実に典型的な、物理的な「下流の発展」がみられるのである。
魚のアメ横に行くと、目の前に実に広大な駐車場を見ることができる。これは町営である。しかも、その先には海浜公園があり、さらに広い砂浜が続くのである。
ところが明治時代には、この辺は海の中であった。大河津分水が出来て、信濃川の土砂が流れ出すようになると、この寺泊付近の砂浜はどんどん広がり、今日の姿になったのである。もちろん現在も進行中である。
アメ横から少し離れたところに古い街並みがあり、料理屋が点在するが、ここはかつて波打ち際だったところである。そして、アメ横は正しく砂浜だったのである。
砂浜が広がって網元たちが自然に土地を手に入れて「魚のアメ横」を作り、さらに広がった砂浜を町有地として公共施設が立ち並び、その建設で建設業者が発展した。そんなところであろう。
土地が広がったのは偶然だろうが、古典的経済学における土地・資本・労働の3要素のうち、土地が確実に広がるのであるから、発展するのも無理ない話であろう。
ところで、長岡にも似たような話がある。それは信濃川河川敷である。
現在、大学、美術館、音楽ホール、イベンド会場、病院などの公共施設が立ち並ぶ、長岡のホットスポットである。
ここは昔、信濃川の河川敷だった。ところが「角さん」が農家からただ同然の安値で買い取り、その後堤防を築いて川幅を縮め、有益な土地に変えたのである。それが批判を浴び、訴訟となり、時の小林市長は、北半分を市に寄付、南半分は公益目的以外には利用させないという裁定を下したのである。
そのおかげというか、結果というか、河川敷は乱開発を免れ、その後の街の拡大とともに、都心に近い広大な公共用地として残ったのである。
公共施設を建設する際、もっとも経費のかかるのが土地収用であり、そのために多くの施設が田んぼの中に建設され、街がドーナツ化現象をおこすという事実があるが、河川敷のおかげで広い公共用地を確保されているのである。
いきおいこの地域を中心に、次の街が発展していくことになるであろう。
人口が減少に転ずる時代の中で、やはり土地が拡大するというのは、たいしたものである。
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