土産、土味、土食、土酒、土酌

この言葉も以前誰かの本でお目にかかったものだ。

「旅は土産、土味、土食がいい」というのである。

土産とは、その土地の産物である。土味とはその土地の味付け、料理法をいう。そして、土食とはその土地で食べることである。

すなわち、その土地ならではの料理を食べるということである。実にあたりまえのことではないか。

ところが、えてしてこれがあたりまえでない。はるばるよその土地や外国の素材を利用して、都会の料理法でつくることのなんと多いことか。土地のものは田舎臭くていけないという。あたりまえだ、ここは田舎だ。田舎だから都会の人の口に合うものはありません。裏山の山菜と川の魚だけですが、というのがいいのである。

このセリフは私の心をつかんだ。無言は現地で調達できるものしか食べないのだ。とはいっても、街の食べ物も時には恋しくなる。それはしかたない。だからたまには街に下りて、海の刺身や肉のかたまりも食べるのだ。しかし、山では変なものを調達したりはしない。山には山のものがあるのだから。

ところで、土酒、土酌だが、これはその土地の酒、すなわち地酒を土地の女性のお酌で飲みたいというものだ。

なんと贅沢な。これでは仙人暮らしとはいえない。だが、酌はともかく、酒はやはり旨い地酒にかぎる。ちなみに無言は「越州」を飲んでいる。俗世のエーヤの住む街の近くにある酒蔵「朝日山」の酒である。

ここの酒は昔からファンが多いのだが、「久保田」でいちやく全国の銘酒になり、その後この越州を作った。いずれも端麗な酒で、仙人にふさわしい。「君子の交わりは淡きこと水の如し」を実践する無言には最適である。

この越州の中でも、参乃越州という純米酒が一番のお薦めである。壱も弐も端麗で不満はないのだが、参にはさらに米の魂を感じるのである。他にも高い吟醸酒がいくつかあるのだが、まぁそれは話の種に飲めばいいのではないか。

 

さて、女だが、それは無言には語れない。昔から優柔不断だった。

優柔不断の男を代表してあえて言わせてもらうと、優柔不断な男は決断力がないというより、やさしくて捨てられないのである。1人を選ぶということは、他を捨てることである。捨てることは忍びない。人にはそれぞれよさがある。そのよさを感じてしまうから、捨てることができないのだ。色白もいいし小麦色もいい。吸い込まれるような大きな目もいいが切れ長の目もいい。ロングヘアもいいがショートもいい。これでは選びようがない。

無言に女は語れないが、土酌はいい。しかしそれは、たまのこと。いつもとなると、無言は己を失いかねない。それが怖いから、たまでいい。

「たまに飲むならこんな女」と題して、そのうちに書かなければと思った次第である。

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