仙人、神を語る

「日本は神の国」発言で、総理大臣を棒に振った大物政治家 (体の大きい) がいたが、彼の言うように日本は神の国である。

たまたま彼が総理大臣であり、日本の戦後の政治は、国家神道を掲げて太平洋戦争を仕掛け、敗北した歴史の反省上、徹底した神道否定というゆがめられた形をとっているからである。

しかし、神道の歴史は長く、文化となり、風俗となり、生活となり、日本人のDNAに染み付いていることは、疑いもない事実なのである。

神道が世界の著名な宗教と違うのは、旧約聖書やコーランの神は信ずる神であるが、日本のカミは感ずるカミだからである。と、国際日本文化研究センターの山折氏は語っている。

感ずるカミとはなにか。彼は西行の歌を引用して説明している。

何事のおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる

神殿の奥にどんなカミがどのように御鎮座ましましているかは知らないが、その前にぬかずくと、ただありがたさに涙が流れる。というわけである。

カミの姿をみたり、存在を確かめたりしているわけではなく、カミの気配を感じているだけなのである。神様の雰囲気に体をひたし、身を震わせているのである。

言うなれば、日本人の感性は、季節や自然の微妙な変化を感ずる感性が、カミの気配を感ずる感性とつながっているのである。

だからこそ、「お米にはお米の神様がいて・・・」という総理大臣の言葉が、本来の日本人の自然な感性なのである。

無言が神を語るときに、いつも例示するのは、天照大神 (アマテラスオオミカミ) の天の岩戸の話である。

日本には八百万の神 (ヤオヨロズノカミ) がいて、分業していた。天照大神は太陽の神であり、当時の唯一の生産手段である農業の神であった。ところが、スサノオノミコトが暴れて、田んぼを荒らしたことに怒った天照大神は、天の岩戸に隠れこもってしまったのである。

天照大神が天の岩戸の陰にかくれると、あたりは真っ暗になった。八百万の神々は、大神に出てきてもらおうとして神議をし、岩戸の前でアメノウズメノミコトが踊り、ストリップショーをし、神々が大声で笑い転げた。

好奇心にかられた大神が岩戸を開けると、神々は背後の岩戸に戻れないようにしめ縄を張った。天照大神の登場で、いっせいにあたりに光が満ち満ちて、人々の顔は真っ白く照らされた。その様を見て、「面白のありさまや」と表現したのである。

これが祭りの起源である。そしてその喜びの宴会が直会 (ナオライ) として、神事の宴席の名に残っているのである。

ここに登場する大神は、姿も顔も現さない。ただ、光の洪水の中に気配が感じられるだけである。

「神のたたり」という言葉があるように、神は姿もなく、信ずることもないが、あらゆるところに存在して、罰当たりなことをすると「たたり」を起こす怖い存在として、日本人の心の中に存在するのである。そして、「たたり」をおこさないように、静かにしてもらうために、お参りをするのである。

それゆえに、輸入された仏教やキリスト教のように、経典があるわけでもなく、原始宗教のスタイルでなんとなく存在し続けているのである。

実は無言は、現代の日本が法治国家であるにもかかわらず、法律を持ち出すことが嫌われ、裁く時には信頼される長によって、大岡裁きをしてもらうことが好まれるという体質に、神の国としての伝統が受け継がれているのではないかとも思うのである。

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