森の時計

 

インターネットを利用するようになって、しみじみ思うこと。

時間がなくなったこと。あるいは、時間が足りないと思うようになったことである。

仙人暮らしをしつつ、インターネットで世界とつながる、というのは無言のような自称仙人にとっては、理想の生活のように思えたのであるが、現実は違うのである。

時間があれば、ネットサーフィンに出かけてしまう。それとて、サーフィンであるから、読書のようにじっくり落ち着いてというものではない。立ち読みに過ぎない。

ネットを使う時間の分、本を読む時間が減ってしまった。これでは間違いなく知性の蓄積ができなくなる。考えるということがなくなってしまう。

さらにホームページの運営に追われると、知性は流出するだけである。

昔、大橋巨泉氏が、芸能界を現役引退する時、「芸能界は消耗する世界だから、しばらく充電が必要」と語っていたのを思い出してしまう。

そこで、またまた倉本聰氏の引用である。

森の時計はゆっくり時を刻む

常日頃しみじみそう思っている。

人間の時計はどんどん速くなるが、太古から続く森の時計は太古のままにゆったりと動いている。

速いのが善であり、遅いのが悪であるという価値観はいったいいつ頃から定着したのか。森の時計というものを、一つ実際に欲しいと思った。

「つまり単純な話、人生たとえば七十年として七十年かかって一蹴するそういう時計が欲しいんです・・・」

旧知の代理店にそのように問うたら彼は極めて断定的に答えた。

「まかして下さい。そんなの簡単です。今の日本の時計技術は信じられないくらいに進んでいます。大手の時計メーカーに私強力なコネがありますからすぐ電話します。彼ならパッと作ってくれますよ」

その答えに僕はたちまちわくわくし、よし出来たらあいつとあいつに贈ってやろう。いや、別のあいつも年がら年中コセコセソワソワ動き回っているから、そういう時計が必要にちがいない。

愉しい期待に胸弾ませて代理店からの電話を待ったのだがこれがなかなかかかってこない。

一月たっても二月たっても全く梨のつぶてであるから、とある日こっちから連絡してみた。代理店氏は妙に狼狽し、汗だくになってすっ飛んできた。

「忘れていたわけじゃないンです。あれから某大手時計メーカーの技術者と何度も会っているンです。ところがですね、どんな時計でも作ってみせると普段豪語していたその技術者が今回は頭を抱えちまってるンです。彼は言うンです。

速く回る時計なら開発できる。零コンマ何々々秒まで出せと言うならそれも簡単に対応できる。しかし今回の注文のようにゆっくり廻せということになると、これが意外やめちゃくちゃに難しい。我々の現在の開発経路の思想は、今回初めでわかったのだが、どうより速く、より細かくという方向へ向かってセットされているらしく、幾晩考えても答えが出てこない。まあ、しばらくは森の時間で待っていていただきたい。

と、まぁもうしばらくはのんびりと森の時間でお待ちいただけますか ?」

考えてみれば、ゆっくり自転車をこぐのは難しいものである。

時速10kmから20kmで走るのは快適である。必死にこいで、あるいはトレーニングを積んで30kmで走るのも、そんなに難しいものではない。

高速で走ると、いざという時には事故につながりやすいものの、とりあえずわき目もふらずに走ると、細かいギャップも瞬時に通過して、あまり気にならない。

ところが、時速5キロで走るとなると、安全には違いないのだが、小さな段差や石ころまでもが気になって、歩くより面倒なものである。

これが1kmとなると、もはや曲芸の世界である。

最近の日本を見ていると、実にそういうことを感じてしまうのである。

高度成長の時代はみんな忙しかったが、あまり問題はなかったように思う。あるいはあったのかもしれないが、すぐに忘れてしまった。

言い方を変えれば、焼きあがるピザパイが多ければ、誰がどれだけ食べようが問題はなかったである。

オイルショックがあり低成長時代になると、ゆとりが生まれたものの、起きてくる問題の解決が大変になったように思う。政治スキャンダルは続出し、総理大臣はめまぐるしく代わった。しかし、本質的な問題はフタをして先送りにされてしまった。

ピザは一枚しか焼けなかったので、どうやって分けるのかをめぐって、早い者勝ちやそれを止めてルールを作る者、審判に袖の下を渡すもの、果ては灯りを消すものまで現れた。混乱と混沌の時代が始まったのである。

そして、今日のようなゼロ成長もしくはマイナス成長時代になると、社会のあらゆる制度がすべて機能しなくなった。

年金、雇用、保険などはその代表であるが、終身雇用の崩壊は社会の不安定化をもたらすし、地域社会の崩壊をもたらし、教育の崩壊ももたらしていると聞く。教育の崩壊はすべての崩壊にもつながることは、あらためて言うまでもないだろう。

成長しない時代にあわせた制度の改革が不可欠なのである。それは小泉総理も叫んでいる。

しかし、制度の改革だけでは全く十分ではない。最大の問題は、意識の改革である。

総理大臣が構造改革すれば問題は解決する。そう考えている輩が多すぎるのではないか。構造改革の痛みというが、それはすべての人に降りかかると考えている人が、あまりに少ないのではないか。

意識が変わらない限り、構造は改革しても、なにも変わらないのである。

ピザは焼きあがるかどうかわからないのである。しかし焼きあがるのを待っている。みんなが待っていて、ルールを決めたり、破ったり、灯りを消したりでは何も変わらない。それでは難民が食料配給を待っていつまでもただ行列するのとと同じではないか。

もはや他の食べ物を探さなければならない。それぞれに探すのもよし、手分けして探すのもよし。そして、ピザが焼けたら、感謝して分ければよいのである。

江戸時代を考えて欲しい。鎖国のおかげで、260年もの間経済が成長しなかったにもかかわらず、長屋の熊さんたちはそれなりに愉しく生活していたようである。

もちろん飢饉があり、絶対的貧困てではあっただろうから、今から戻れと言われても無理だろうが、その中での暮らし方というのはあったはずである。

ちなみに江戸時代にはゴミが全くなかったという記録が残されている。リサイクルとか環境とかの観点からみると、理想の時代だったようである。

さあ、やみくもに走るのはやめようではないか。いや時間に追われるように早足で歩くのはやめようではないか。立ち止まって花を愛で、小鳥のさえずりを聞き、そよ風を体で感じ、ゆつたりとした気分で自分の意志で歩こうではないか。

ゆっくりと、しかし確実に、遥かなる頂きを目ざしつつ、一歩一歩自分の足で歩けばいいではないか。

仙人に似合わぬ中年の主張を終わります。

 

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