歴史と文化と憩いの町並み

本町「時代屋通り」構想

工事中ですが、立ち入りできます。

無言生まれ育った街、長岡市本町2丁目は、かつての繁栄がうそだったかのように、ひっそりとしてしまっている。地元では、自虐的に「本町村」と呼ぶ人も多くなっている。

しかし、産業発展と経済成長の時代だった20世紀が終わり、高齢化と成熟の21世紀を迎える時、新たな可能性に向かって再び飛び立とうとしているのである。

戊辰の役、第二次大戦と二度の戦禍を経て古いものを喪失してきたこの街にあって、住人たちの暮らしへのこだわりが、時代を越えて今この街をよみがえらせようとしているのである。

まもなく大手通りの直線化工事にともなって大通りの北側に新しい緑地帯が生まれようとしている。

ここは、大通りの喧騒を防ぐとともにこの時代屋通りの入口を印象付けるだろう。

さて、通りに一歩足を踏み入れると、見事な銀杏並木と巨大なケヤキに目を奪われるはずである。

このケヤキは、江戸時代から続く老舗の醤油屋さんの店先にある。現在はここでは製造されていないが、昭和13年に長女の誕生を記念して植えたケヤキが、空襲の焼け野が原に生き残ったのを大切にし、10代目のご主人がケヤキの成長に合わせて雁木の屋根を作り変えたり、家建て換えてもこの大木を守ってきたのである。その心意気が今日の大木となったものである。

イチョウ並木は通りの東側と西側で大きさが違っている。これは日当たりの関係と地下水の関係と思われる。大きな庭の近くの木は大きくなっているようである。

11月になると一面黄色に染まり、運がよければ、よく晴れた初冬の朝、通り一面黄色のじゅうたんが敷き詰められることもある。ただし、濡れ落ち葉にならないうちに掃かないと大変なことになってしまうのだ。この落葉掃きも、戦後復興の象徴として、お互いに生きる者同士の連帯意識の中で、繰り返されているのである。

 

とおりの中ほどにある老舗の呉服店。現在は居住していないが、遠くに在住しているご主人が、このままの姿を守ろうとして管理されている。元旦には挨拶に来られるところをみると、いずれは引っ越してこられるのだろう。

ご覧のように、シャッターではなくしとみ戸である。なんと珍しい。

黒塀で仕切られた広い庭の奥には、蔵が見える。黒塀のすき間から石畳をヒョイヒョイとまたいでいくと、白壁の蔵があり、知る人ぞ知る文化人たちの秘密の酒場になっているというのはどうだろうか。

 

黒塀の全景である。塀の下には大きな石が詰まれている。昭和24年頃からこのままだったらしい。当時は行き交う人も多く、腰掛けて一休みする人や、井戸端会議の人たちも多かった。

長岡の著名な人たちも腰掛けたことがあるに違いない。

2段の部分は腰を下ろすにちょうどよく、足の悪いお年よりは3段の高いところで、ちょいと一服される。

無造作に置かれただけなのだろうが、実に機能的である。この石はもともと戦前の建物の土台に使われていたものらしい。ということは、空襲の焼け野が原を見てきた石たちなのだろう。

ここに見られる変わった屋根は、奥に蔵があることを意味している。さりげない古いものに歴史が感じられるのである。ちなみにこの看板も味があるではないか。

 

町内で最も古いといわれるのがこの漆器屋さんである。長岡藩主の牧野公が三河の国から転封になった時についてきたということだから、400年続いていることになる。とにかくこの街は古いものが似合う。いずれは、骨董品屋さんを初めとして、時代がかった物を売る店が点在するようになるかもしれない。

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今のご主人で最後かと心配されたが、娘さんに婿さんが決まり、さらに男の子が生まれた。めでたしめでたしである。

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街路樹の根元と各所に置かれたプランターには、季節の花が住人たちの工夫で咲き乱れている。これは、町内の敬老会の人たちが、街をきれいにし、花を育てながら交流しようという目的で設置したものである。

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また、こんなものも見かけられた。昔の火鉢であるが、中には水がはられ、絶滅が心配されているめだかが泳いでいる。これも、共生を意識して、住民が勝手に設置しているものである。

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さて、この時代屋通りを抜けると、平和の森公園と明治公園、互尊文庫を結ぶ公園通りにぶつかるが、このあたりから裏通りに入ると、個性的な本堂が目立つ大きなお寺が立ち並んでいる。

ここは昔寺町と言われていた通りである。そして、この角に立つ鐘撞き堂には、「維新の暁鐘」の案内板も立っている。

これは、戊辰戦争の時、未明に官軍の乱入を知らせるために撞いた鐘である。

「夜は明けぬ 覚めよ起きよと撞く鐘の 響きとともに散りし花はや」

司馬遼太郎の峠の中にも、こんな歌が書かれている。

そして、お寺の廻り塀に沿って行くと、ケヤキの大木が目印になる平和の森公園である。

この公園は第二次世界大戦の空襲で長岡の街がが焼かれ、大勢の市民が犠牲になったことを後世に伝えるために、市政施行90周年記念事業として平成8年に作られたものである。

ケヤキの木には大きな鐘がぶら下げられ、いつも平和の音が響いている。このケヤキも空襲で焼け残ったものらしく、長岡市の木に認定されている。

公園の中ほどにあるのが、平和像である。最初は駅前に設置され、その後悠久山公園に移され、そして再びここに移されたものである。それを勝手な都合でころころ移されてと言う人もいるが、それも人の世の歴史というものである。最初は一番目立つところを選んだのだろうし、次には駅前発展の障害になるということで、静かな悠久山に封印したのだろうし、今は街中こそが静かな環境になって歴史をしのぶにふさわしいということで移されたのであろう。

 

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