4月29日はみどりの日である。山々は新緑に包まれ、山肌には朝日を浴びたウドが、銀色に輝いて見える。
気持ちのよい青空の下で、緩やかな春風に吹かれながら凧揚げに興じ、気が付けば今年初めての日焼けをしたようである。
今日はビールがうまいだろうと思い、今年初めての冷奴を食べようと、変人豆腐屋に頭を下げて、豆腐を一丁調達する。
ちょうどそこへ、今年初めてのカレイが釣れたからと、釣師がやってきた。25センチ程のカレイであった。さっそくそいつを塩焼きにすることに決め、食材を集めに清澄房の周りをうろついた。
まずはアサツキである。細い葉のものはまとめてむしり、太いものは丁寧に1本ずつ根元の玉を引っこ抜く。こうして玉は味噌を添えてかじり、葉は細かく刻んで冷奴の薬味とする。ついでに味噌汁にも投げ込もう。
次に鍋にお湯を張って、タケノコを掘る。ちょうど手ごろなサイズを選んで抜き取り、すぐに鍋に投入する。
それから、カエデの若葉、ツツジの花、タンポポの花と葉、レモンバームの若葉などを集め、太さ2センチもあるアスパラと、ウドを2本調達する。
こうしておいて、バタバタと料理に取り掛かった。まぁ無言の料理などはたいしたもんじゃないが。たいがい洗って切るくらいなのだから。それでも簡単に天ぷらだけは揚げてみた。材料はウドの頭とタンポポの葉、それにカレイを少しである。
冷奴は氷を張った皿にのせ、カエデの若葉とツツジの鮮やかな花を飾る。この色の取り合わせが無言を幸せにしてくれる。薬味は先ほどのアサツキとおろしショウガである。
ゆでたタケノコはそのまま切って、穂先は刺身と味噌汁に、根元はさっと炒めて麺つゆで味付け。
そしてさっとゆでたアスパラはマヨネーズを添え、ウドの根元はそのまま味噌を添えて丸かじりだ。
こうして、乾杯。まずはビールののどごしが壮快だ。
冷奴の舌触りと薬味の鮮烈な香が初夏の到来を体に覚えさせる。
さて、焼きたてのカレイは身がはじけるようにプリプリである。今朝まで海の底を泳いでいた躍動感がみなぎっている。
ここでおもむろにウドをかじる。これまた鮮烈な香をともなってジュースが口の中に広がつた。
続いてはアスパラ。これはまた甘いの一言につきる。
タケノコの刺身も茹でたばかりだが、全くえぐみがなく、色白の女性の裸体のような透明感と気品を漂わせながら、無言の舌を楽しませた。
さて、天ぷらである。いうまでもなく、カレイはプリプリ、ウドとタンポポの苦味は、味に変化をつける。
ああ、もう極楽ですなぁ。
しかしここで無言は語る。なぜにこんなに旨いのか。
それは体が欲しているからである。ほとんどがいわゆる山菜と呼ばれているものである。山菜とくればアクである。アクとはいったい何物なのか。アクは灰汁であり、悪ではない。料理の本を見ると、アクは丁寧にすくえとか、アク抜きはしっかりとと書いてある。しかしアクとはそんなに悪なものなのだろうか。今食べたタケノコやウドのどこに悪があったのだろうか。
考えてみれば、山菜はほとんど芽である。生物学的にいえば生物の生長点なのである。そこには生物体を成長させるエネギーが凝縮しているはずである。言うなれば生命そのものかもしれない。我々は生命そのものを食べているのである。生きるために食べるということは、生命あるものから生命を頂いているのである。
都会暮らしが長くなると、そのことを忘れてしまうのであるが、たとえどんな加工食品であれ、そのもとは生物そのものなのである。肉ひとつとってもパックされた塊を見ると、単なる商品にしか見えないが、実は生きる豚や鶏を殺して切り刻んだものに相違ないのである。想像力が欠如してしまうとそのことを忘れてしまうのである。もっとも想像力がありすぎると、残酷で食べられないということにもなるのであるが。
ではアクとはなにか。生命そのものであるが故に、死後の変化が激しいのであろう。変化とは酸化にほかならない。魚だってそうである。内蔵は腐りやすいし、煮るとアクが出るのは内臓である。普通刺身で食べるのは筋肉の部分であり、これはかなり日持ちがいいものである。腐りやすいもの、酸化しやすいものにはエネルギーがあるのである。
かの倉本聰氏は、早春の雪に覆われた雑木林が、木の根元から残雪が融けるのを見て、大地の種火が残っているからだと表現した。
まもなく芽吹きとなると種火は全身にまわって炎となり、葉を広げ、花を咲かせることになるのだが、その生きる力が点火したところが、木の芽として食べられるのである。植物としてはあったもんじゃないが、食べるほうとしては、冬の間に弱った体に活を入れるために実に効果的なものなのであろう。
いろいろな想いが頭の中を巡ったが、次第に清酒「越州」のおだやかな酔い心地に包まれて、そんなことはどうでもよくなってしまった。
しかし不思議なことである。山菜を食べるたびに確実に体が元気になっていくように感じられる。確実に寒さを感じなくなってしまう。確実に体が夏向きになってしまう。
しかも驚いたことに、無言も寄る年波には勝てずひざを痛めていたのだが、この日から治ってしまったのである。恐らく何かが関節を滑らかにしたのであろう。
ともかく理屈はどうでもいい。山菜のエネルギーは偉大なのである。