《 仙人大阪へ行く-その1 》

車窓から青空を眺めながら、無言は考えた

5月31日の昼下がり、無言は大阪行きの列車「サンダーバード」の車中にいた。

新設計の車両は窓が大きく、無言のように出歩くことのない者にとっては、車窓に展開する景色が、なによりのごちそうに思えるのだった。

列車が福井盆地に入る頃から、空が青さを増し、ところどころに浮かぶ雲が、くっきりと白さを際立たせ始めていた。

それを眺めながら、無言は司馬遼太郎氏 (以下敬称は省略する) の「世に棲む日々」の冒頭でみかけた一文が思い出していた。

「世に棲む日々」は幕末の長州藩の討幕運動を、吉田松蔭、高杉晋作の2人を中心に描いた物語である。ここで司馬は、取材のために山口県萩市を訪れた時に、タクシーの中から見た青空が非常に濃く、雲がくっきりと浮かんでいたという印象から、中国大陸に近いこの地特有の空の色であると断定したことから物語を書き始めている。

この風土の中で、長州の若き志士たちが異例の決起をし、倒幕のエネルギーを蓄えたと論じている。司馬はそのエネルギーを、戦国時代に毛利200万石だった藩が、防長2藩36万石に封じ込められて、食えない中で、江戸時代260年間にわたって燃やし続けたものだと断定している。実に鮮烈にして、明快な論理である。

この歯切れのよさこそが司馬文学の特徴なのであるが、同時に司馬は、歴史を大河ととらえ、高見から見下ろしつつ、歴史上の有名人物に焦点をあてて、その人物が歴史を作ったように表現している。

ここに登場する主人公はすべてスターであり、みごとに立身出世をするのであるが、それが時のサラリーマン、いわゆるホワイトカラーに絶大な支持を集めたのである。それ故にいつからか司馬文学は国民文学の称号を与えられたのである。むろん無言もそのファンの1人である。

ところが、読者はここに描かれた物語が、あたかも史実であったかのように錯覚し、歴史を語ってしまうのである。なにしろ読者が多いのであるから、いわゆる事実上の標準、デファクトスタンダードになっても不思議はない。

ところが司馬本人も語っているのだが、司馬文学は歴史書では決してない。あくまでも歴史に題材を求めた小説なのである。しかも、「室町時代以前に関しては、誰が゚何をどのように買いても許されるのです」と本人が語るように、史実自体が判然としないものでは、否定のしようがないのである。

評論家の佐高信氏に言わせれば、司馬は商人の視線であり、調子よくお客に受けるように嘘八百を作り上げているという。それに対して、藤沢周平は農民の視点で、無名の人物から歴史にアプローチをしているし、池波正太郎は職人の視点で、江戸の風俗を通して歴史にアプローチしている。なるほどと思う指摘である。

そんなことを思い出しながら、無言は窓の外を眺めていた。確かに司馬は空の青さに感動したのだろうが、それが幕府を倒すことの必然であるかのような語り口は、詐欺師というにふさわしい。しかし無言のようなファンは、その詐欺師の語り口に気持ちよく騙されたいと思っているのであるが。

この日大阪に着いた無言は、千里丘のマンションに住む叔父さんを訪ね、この話を切り出した。

叔父さんは大変な読書家であるが、やはりこちらの話を全て理解している上で、「オレは藤沢周平派だよ。司馬のような見下ろすのは気に入らないんだ」と言った。

ほんのさっきまで、8階にあるマンションのベランダから、外の景色を無言に見せながら、「あそこは何、そこは何、むこうが生駒の山並みなんだ。オレはここから見下ろすのが好きなんだよ」と語っていたはずなのだが。

 

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