梅雨時のうたた寝

梅雨らしい天気が始まった。

どんよりとした空。天気予報が「くもり」だといっても時々降る小雨。末期になればこれでもかと雷が鳴って、バケツをひっくり返したような雨が降る。

その頃になれば、蒸し暑くでしようがない。コンクリートはびしょびしょ。いたるところにカビが生える。

さらには神経痛が痛いとか、古傷が痛むとか。

ちょっと考えただけでろくなことがない。人間にとっては梅雨はろくなものじゃないのか。

しかし自然界では梅雨は素晴らしいものに思える。なんといっても、梅雨時の里山は精気に満ち満ちている。山菜取りの季節も終わり、ハイキングの季節も終わり、一般的には山に出かける人が減る季節である。

たっぷりと水を吸い込んだ木々は、勢いよく枝を伸ばし、葉を広げる。それを食べようとたくさんの虫が発生する。さらにその虫を子育てのエサにしようとして夏鳥たちが子育てをする。また、木々の花は芳香を漂わせ、山を怪しげな精気に包み込む。

生物たちにとっては、「ゼッコウチョー」の時でもあるのだ。

二十四節季には、降ってくるものと気温による季節分けが多いが、その中でも雨はありがたいイメージになるようだ。

まず「雨水」。これは雪が雨に変わる頃であり、春の始まりである。次が「穀雨」。これは穀物が育つ頃である。そして「小満」。5月の20日頃だが、文字通り天地が満ち始める季節である。その後「芒種」「夏至」となるわけだが、大満といってもいい季節である。

おそらく人間の生活が農業に依存していた頃にできた暦であるから、雨はありがたいものだったのであろう。

ところが人間の生活が自然から離れ、農業から離れ、都市型文明に依存するようになると、雨はよくないものになったように思われる。まして梅雨などは最悪のイメージになったのである。

ところが最近になって、日本人は疲れてきたのだろうか。やたらと「癒し」なる言葉がもてはやされるようになった。それはストレートに山に出かけたり、ガーデニングをしたりするものもあれば、自然界の癒しを科学的に研究して機械で再現するものも多い。

例えば、アルファー波、揺らぎの風とか、マイナスイオン効果、森林浴効果など。まぁどれも少しは効果があるのかもしれないが、無言は実感したことがない。

その中でも今の季節テレビで一番見かけるのは、マイナスイオン電気製品である。代表的なものは「マイナスイオンの大清快」なるギャッチフレーズのエアコンである。

果たして本当に効果があるのだろうか。無言は知らない。ただ学者が言うには、滝の心地よさはマイナスイオンなのだという。そしてそれは、水がしぶきをあげる所で発生するのだという。

しかしマイナスイオンが極大なのは滝壷であり、全身ずぶ濡れになるところなのだとも言っている。距離が離れると激減するものらしい。それならば風呂場でシャワーをかぶっているのが一番いいのではないか。事実気持ちがいいし。

エアコンの出す電気的マイナスイオンはそれに比べるとわずかなものらしいのだ。だから効果もわずからしい。宣伝はいつだって大げさなのだ。無言の話と同じなのだ。無言のモットーとする「1を聞いて、10を知り、100を語る」ようなものらしいのだ。

いや、無言は別に否定をしているわけではない。そんなことより、梅雨時の雨の日には、窓を開け放して、いや家が湿るというのなら、雨の当たらない外で、毛布をかけてうたた寝をするのが一番だ、とおすすめしたいだけなのである。

雨音を聞きながらボーッとしていると、全身から緊張が抜けていき、体が柔らかくなったような気にさえなること間違いない。何時間でも寝ていられるはずである。そして、それは体が癒しを求めているということに違いないのだ。

ところで、うとうとしながら考えた。ワールドカップ・サッカーは楽しませてくれたが、サッカーということでなく、世界各国の歴史と怨念の戦いだと考えるとまたおもしろいものである。

もちろんヨーロッパと植民地の戦いでもあるのだが、人類の歴史は、メソポタミア、エジプト文明、黄河、インダス文明から始まったというが、すべてがその面影すらない。それどころか、当時は肥沃な土地というのが条件だったはずなのだが、現在では砂漠化しているところが多い。

メソポタミアとエジプトの文明は、その後地中海地方に展開して、数々の国々の活躍と戦争を招くのだが、そのほとんどが昔日の繁栄をイメージすることさえ難しいようにも思える。

イラク、エジプト、トルコ、イタリア(ローマ)、チュニジア(カルタゴ)、スペイン(イスパニア)、ポルトガル、などなどである。もちろん大変古い話だから、今の人たちが怨念を持っているとも思えないが、「つわものどもが夢の後」であることは間違いない。そしてその多くが乾燥化しているのである。

そう考えると、雨は繁栄をもたらす恵みなのであろう。

梅雨の雨の中で、開け放した窓辺で毛布をかけながら、うつらうつらと無言は思いめぐらすのであった。

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