虫の目、鳥の目、無言の目

 

先日、無言のものの見方について、するどいというか、おほめの言葉をいただいた。そこで、この機会に一言語らせていただくことにする。

世の中には、「虫の目、鳥の目」という対比した表現があるようである。

「虫の目」というと、一般的に理解されているのは、複眼であることにより、形の判別は定かでないが、色の変化により動きを察知できるとということであるらしい。

しかしこの場合、虫の視点、すなわち地上数センチから見上げるという意味も含むようである。言い換えればミクロの視点とも言えるだろう。

虫の見たカボチャのつぼみ

一方「鳥の目」は、遠くからでも小さいエサを発見できる視力と集中力が特徴であるが、それと同時に、空から広範囲を見下ろすという意味も含まれているようである。言い換えればマクロの視点である。

鳥からみたらおいしそうなヤブキリの幼虫

結局いろいろ多角的な見方ができるものだということらしいのだが、無言はさらに「無言の目」を付け加えることにしている。

無言の目は、人間社会を見る場合にも、自然界からの視点で見るのが特徴でであり、さらに時間の経過、時代の流れの中で見るという視点も加えるというのが特徴である。

例えば無言はよく「世代論」を語る。なんでもかんでも、あの世代は・・・と一刀両断にしてしまうというちょっと困ったこともあるのだが、「同じ時代の空気を吸った者は同質である」という仮定をしているのである。これはいわゆる生物学における環境決定論に通ずるものであろう。

代表的な世代として「団塊の世代」がある。これは堺屋太一氏が名づけたもので、戦後のベビーブーム生まれの世代である。

彼らは生まれた時には食べ物も何もかも不足する中で、突然子供があふれたわけであるから、きびしい競争の中で育つことになった。学校に入れば教室が足りない、会社に入ればポストが足りない、年金が足りない、と足りないだらけの中で生きてきたのである。

彼らは彼らの存在自体が、不足するという新しい事態を作り上げるということを宿命づけられてきた。

あのトノサマバツタの実験でも、幼虫時代を過密なケースの中で育ったバッタは、色が黒く羽が長いといった飛ぶのに適した体に変化することが知られている。通常の育ち方では (これを孤独型という)、せいぜい数メートルから数十メートル飛ぶだけであるが、羽の長い個体 (これを飛蝗型という) では、何キロでも飛び回ることができるという。砂漠の緑を全て食い尽くして飛び回ることで知られるサバクトビバッタも同様である。

すなわち団塊の世代とその後の少子化世代では、体も性格も全く別の存在と考えることができるのである。話せばわかるという違いを超越しているかもしれないのだ。それぞれがその時代の空気を吸い、正しいと考えるものが同世代で共通する、そういう存在なのである。

人は皆、いや動物だってそうかも知れないのだが、その時代、その環境の中で、賢明に正しく生きているはずである。後になってそれが間違いだと指摘することは簡単であるが、その瞬間は正しく選択しているのである。しかし結果として正しく間違いを選択することもあるわけである。

そうやって人間は生きている。時代の流れを完璧に読めればよいが、そんなことはありえない。正しかったもの運がよかったものが生き残る。その点では動物やその他の生物と何も変わらないのかもしれない。

無言はミクロの目で、マクロの目で、そして時代を見る目で、生物を見る目で、世の中を、社会を、そして人間を見つめるように努めているつもりである。

どうかこれからも、「問わず語り」にお付き合い願いたいものである。

 

 

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