下流は上流を駆逐する
人間が森から出て、下流に住み、河口の都市が工業都市として発展した、という話は前に書いた。ならば次に発展するのはどこか。河口より下流は、地下か水中しかないではないか。
それは今のところ無言にもわからない。よくいう情報化時代、ネット時代が全く新しい生活を生み出し、ビジネスを変えるのだろう。100年過ぎて振り返ると、やはり下流が勝ったということになるのかもしれない。
それはともかく、現代社会において、情報を発信するのが下流であり、上流がそれに振り回され、屈服したという倉本氏の指摘は事実であろう。情報化時代には、上流下流といった地理的概念は意味を失うのかもしれない。
ところで、もうすこし具体的な身近な例で、上流が下流に駆逐される様子を見てみよう。
例えば、無言が俗世に残したエーヤの住む長岡市の中でも、着実に下流が上流を追いやっている。
長岡は縄文時代からの歴史が発掘されている。それは長岡歴史博物館に行けば、詳しく知ることができる。この縄文時代、最初に人間が住んだのは、この博物館のある西部丘陵地帯であるといわれている。
やがて農耕が盛んになると、信濃川の氾濫河原である低地に移りすむようになった。ところが低地は氾濫河原であるから、大雨が降ると確実に流されるのである。これではうまくないので、集落は平地の中でも少しでも高いところを選んで形成される。
こうして大集落ができると、それが長い岡のように見えるというので長岡という地名がうまれたのであろう。旧長岡市街地というのがこれである。
武家社会の時代は農業時代であったから、おおむねこの流れであった。
しかし、明治になり、工業化政策の中で鉄道を敷設する時、多くの街で、人は誤りを犯すのである。いや、誤りというのは後世の評価であり、当時としては上流の思想を持ったにすぎない。
にぎわう街の中に鉄道を通すなどということは、危険でもあり、土地を明渡すのは不利だという判断から、多くの街では町外れに線路を敷き、駅を置いた。
その結果、その後の駅前の発展の中で、街ごと廃れていった街も多い。幸い長岡では、比較的近くに駅を置いたので、その後駅前と旧中心がつながって発展することができた。
しかし次に起こったモータリゼーションでは、道路はより地下の安いところを通り、ロードサイドに進出した商業と相まって、郊外の時代が到来するのである。さらに国の農業政策の転換で、農地は次々に宅地化、商業地化し、中心部はかつての求心力、賑わいはおろか、存続すら危ぶまれているのである。
エーヤの住む本町は、長岡でも最も地盤が固く、標高が高いといわれている。ほんの10メートル程度ではあるが。全国の多くの街に、本町という地名があるが、いずれも古くから街の中心として栄えたようである。ところが、現在ではほとんどが場末の静かな、廃れたような街になっているようである。
代わって最も賑わっているのは、ほんの10年前には純粋水田地帯だった低地である。
本町と水田地帯との間に川が流れているわけではないが、現実に標高差があるわけで、これは上流と下流と考えることは可能である。
つまりここでも、上流が下流に駆逐されているのである。
現実の経済的側面をみると、すでに発展した所は地価が高く、固定資産税が高い、土地が狭い、諸経費が高いという決定的要因があるわけであるが、ここではそういう問題は指摘しない。あくまで人間の問題としてとらえると、人間が上流の人となっているのである。
上流の人は、変化を認めない、自ら適応しようとはしない、過去にこだわる、活動的でない、そして多くの場合高齢である、という理由により、下流の人との競争には勝てないのである。
若者は活気と変化を求めて、下流へ行くのが当然であるが、それでも残った一部の人と、年をとって下流から再び戻る人たちによって、上流はかろうじて生きている。下流を別世界のことと達観しながらである。
古い中心地は、達観した仙人たちの街なのである。再び逆流することはありえないのだ。