日和見教を検証する

下天のエーヤたちの集まりであるパパラギ探険隊には、日和見教という実にいかがわしい宗教モドキのものがあるという。このたび、その教義を手に入れたので、検証してみたい。

大変な時代を生きる・・・日和見教のおすすめ

闇の世界は怨霊ひしめき、魑魅魍魎跋扈し、四苦八苦が支配しています。この世界から救済されるために、釈迦は自ら煩悩を捨てて悟りを開くことを教えましたが、日和見尊師は朝を待たなければならないと教えています。朝になって大日如来の化身である「大いなる力」が東の空に姿を現した時、ただ一心に「イイデスネェ」と唱えれば、ただ唱えるだけで言霊が宿り、本当になにもかもイイデスネェという気持ちになることができるのです。

「大いなる力」の前では、男女の区別は勿論のこと、人と獣、鳥、虫、花など全て分け隔てなく、大いなる力の造物として、平等に生きることができるのです。これが和であり、輪であり、環でもあります。大和こそが理想の姿なのです。小さく人間界に目を向ければ、人と人との不信もいがみ合いも、全て大いなる力の前で「イイデスネェ」と唱えるだけで、人と人との和が広がっていくのです。人と顔を会わせる時には、右手の指を揃えて伸ばし、顔の前に立て (立掌といいます)、「どうもー」と言わなければなりません。これは仲間であることを確認する (同申) とともに、真理を表す (道申) ものなのです。

さて、怨霊ひしめく世界というのは、日本の原始神道における解釈である。ここでは穢れが忌み嫌われ、禊によって祓うことができるとされる。八百万の神が存在するといわれたが、神は祟りをもたらすということで怖れの対象であり、存在の気配を感ずるだけのものであった。ちなみに仏教では輪廻転生を基本とし、霊の存在は認めていない。

釈迦は生きることに執着することこそ煩悩であり、煩悩を捨て悟りを開くことで、四苦八苦から逃れられると説いた。生きることは無であり、死は輪廻転生を意味する。しかし、自ら悟りを開くというのは誰にもできるものではなく、死後解釈は割れることになった。

釈迦の教え通りに悟りを開こうとする派は、小乗仏教としてセイロン、ビルマ、タイに伝わった。しかし修行を積むことが偉くなることということでは生産的でなく、僧の特権階級化をもたらすという弊害をもたらしているのである。

一方中国や日本に伝わったのは、大乗仏教といわれているが、大きなバスに一緒に乗って救われようというもので、思想のインスタント化がみられる。しかし、おかげで日本は神道と仏教が混在してよくわからないという今日的な状況を生み出すことになったようである。

仏教が最初に伝わった頃、聖徳太子は仏教を保護し、その後の隆盛を約束したのであるが、太子の17条の憲法では、「和を以って尊しとなし、・・・」として、和が一番大切だとしている。この時代にはみんなで話し合って、といっても意見を戦わせるのではなく、あくまで全員一致によって決めたようである。言葉には霊が宿り (言霊) 、言葉にしたものは実現すると考えられていたようである。だから、人と違ったことを言葉にすることは危険であり、対立は怨念を招くということで忌み嫌われていたようである。

天皇の後ろ盾を得た仏教は、その後奈良時代には政治の中枢に関係するようになった。それが目に余るようになると、正しい仏教を求めて、随に最澄、空海を派遣した。最澄は仏教の総合デパートのように経典を持ち帰り、学者として後の法然を始めとする鎌倉新仏教を生み出す元になった。空海は真言密教をもたらしたが、これは大日如来こそが宇宙の中心であり、秘密の力をもつというもので、多分に原始的な魅力があったようである。

鎌倉時代になると、貴族の時代から武家の時代へと変化したことから、仏教にも新しい動きが始まった。それまでは極楽浄土を想像することで浄土へ行けるという観相念仏だったために極楽浄土をイメージした建築物や芸術品が生まれたが、これはあくまで貴族のもので゚あった。それを一般民衆も救われるように、ただ一心に念仏を唱えるだけでいいという教えを始めたのが法然である。親鸞はさらにインスタント化して、念仏は一度だけでいいとし、一遍にいたっては念仏は必要ないとした。その結果一気に大衆化することになったのである。一方、自力救済を求める一派は、禅宗を始めた。また、日蓮は初めて女性も救われるとし、他宗からの改宗を勧めて勢力を拡大した。この流れを汲んで、現在でも創価学会、立正佼成会などは女性の信者を集めているのである。

そもそも世界の宗教には、造物主としての神を認めるものと、認めないのがある。神が泥から全てを造り出したとするユダヤ教、キリスト教、イスラム教の流れでは、泥から造られたに過ぎない人間や動物はみな平等であるという根底がある。ここから民主主義がうまれることになったのである。ところが造物主を認めない宗教である、ヒンズー教や仏教、儒教などでは、平等思想はなかったのである。ヒンズー教や儒教では今でも徹底した差別思想が残っている。

このように検証してみると、日和見教というのも単にいかがわしいだけでもないという気がしてくるのである。

明らかに原始神道と仏教の混合の上に存在し、真言密教を母体として、親鸞のインスタント化、日蓮の平等思想を加えたところに存在すると考えられるのである。

話は飛躍するが、現代の日本が経済大国化したのは、徳川家康のおかげなのだという指摘があるようである。これは、家康が幕府を開いた際に、人の移動を抑える目的で、家制度と檀家制度を強制したことである。これによって、寺は信者を固定化することになり、江戸時代を通じて宗教活動は停滞、堕落したのである。

明治になると家制度を守りつつ、神道を復活させ、神仏混交となったのであるが、ひとつの強力な宗教に支配された国は、宗教原理と経済優先思想の対立を招くことが多いことからすると、宗教の弱体化というのは、経済活動優先主義の追い風になったとも言えるのであろう。

現在アメリカのブッシュとイラクのフセインの対立が戦争へと向かっているが、これはアメリカの市場経済原理主義とイスラム原理主義の対決とみることができるわけで、その構図を回避できないままに戦争突入ということになると、宗教戦争の泥沼にはまる恐れが大になるのである。

ちなみにユダヤ教とキリスト教とイスラム教は同じ造物主を神とし、聖書の解釈を別にしている。ユダヤ教は旧約聖書、キリスト教は新約聖書、そしてイスラム教はコーランである。しかも後から誕生したものは、前者を否定しているわけであるから、宗教戦争はさけて通れないものとも言えるのであろう。

聖都エルサレムをめぐる争いは今日でも何も解決していないのはご存知のとおりである。

 

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