「落ち葉の舞い散る停車場は、悲しい女の吹き溜まり、だから今日も1人、明日も1人、過去から逃げてくる・・・」
無言の若かりし頃に流行った歌の一節である。
本来ならば、きれいに色づいた落ち葉が風に舞い、足元に積もった落ち葉がカサカサと乾いた音を立てるところであるが、今年は寒気の吹き出しが異常に早く、木の葉は色づく間もなく、北風に吹きちぎられて、地面にべったりと張り付いてしまっている。いわゆる濡れ落ち葉である。
過去に決別して歩き出す女は、乾いた風の中を、コートの襟を立てて、ヒールの音を残して行くのであろう。
どういうものか、無言はそのシーンに惹かれるのである。
女は焦点の定まらない目でうつむきながら、細身の体を包んだコートのポケットに両手を入れてたたずんでいるに違いない。女のうなじや、頬の透けるような白さが、無言の目に焼き付いて離れないのだ。
「夜目遠目傘の内」という言葉があるが、コートの女も同様である。あまりはっきりと見えない方が、想像力をかき立てられて、女は美しく見えるものらしい。
そういえば、無言の仲間で、パパラギ探険隊の矢沢隊員も、その卓越した想像力ゆえに、いまだ独身を保っているが、やはり「白いコートの女」という伝説を伝えている。
さて、落ち葉の舞い散る季節はもちろん秋である。秋は春夏秋冬の季節の中で3番目の季節というイメージがある。
北原白秋という詩人がいたが、いかにも無言好みの、ロマン掻き立てられる名前である。白秋というのは、中国から伝わったままの秋の飾りであろうが、青春、朱夏に続き、玄冬を迎える前ということになる。
青春の明るく希望に満ちたイメージ、朱夏の激しく燃えるイメージに比べ、 白秋とは実に淡白な、透明感に溢れた、そして想像力をかき立てられるイメージである。
音楽の世界にも、「四季」と名づけられた曲が何曲もある。最も有名なものは、ビバルディの書いたイタリアの「四季」、そしてチャイコフスキーのロシアの「四季」がある。さらに、アメリカ人ジョン・ケージの「四季」は、あえてインドの四季を書いたものだと言う。
インドの四季は、冬春夏秋となるらしい。インドの解釈によると、冬は休止、春は創造、夏は持続、秋は破壊をイメージするという。
破壊の後に暗く長い冬が来るのではなく、冬は春を迎えるための静かな休止と考えるのである。そう考えると、冬は冬枯れの季節ではなく、木の芽の季節ということになる。
一見何気ない違いのようだが、輪廻の思想を強く感じさせるものである。
そうだ、停車場から旅立った女は、陰陰滅滅とした冬を迎えるのではない。今日から新しい出会いを探しにゆくのである。
後には、停車場の地面にべったりと張り付いた濡れ落ち葉が残される。男はべったりと張り付いたまま、長い冬をじっと耐えなければならない。そのくせ、「夜目遠目傘の内」などと、勝手に想像の海におぼれているのだから幸せなものである。
やはり男はウェット、女はドライなものなのであろうか。