討ち入り

師走と言えば、討ち入りである。

元禄15年 (1703年) 12月14日 (新暦では1月になるが・・・)が、その日であったことから、忠臣蔵の圧倒的な人気に押されて、師走と言えば討ち入りになったのであろう。

もっともこれは人によって違い、師走と言えば真珠湾攻撃の人もいるし、第九交響曲の人もいるだろう。しかしここでは問題でない。

討ち入りがあった元禄15年は、現在の経済社会状況に近いものがあったと言われている。元禄時代は、「元禄・華の繚乱」とか「昭和元禄」などという言葉が知られているように、大変景気がよく、元禄文化が花開いた時代であった。

世の常として、好景気の後には不況になるのだが、この元禄15年は急速な景気後退で幕府の財政が逼迫したようであるから、経費削減が叫ばれたに違いない。

そんな中での浅野匠守の接待係就任である。好況時代の成功者である吉良上野介と、意見の対立があったとしても何も不思議ではない。対立がいじめへとつながったとしても不思議はない。

先日14日の夜、長岡市内の蕎麦屋「越後長岡小嶋屋」の2階で、討ち入り会があると聞いて、無言もなぜか顔を出すことになってしまった。もちろんエーヤとしてである。

それはなぜか。

やはり己が浪人であることを実感したからではないか。無言が浪人であることは、今さらという感じでもあるのだが、具体的に離職したり、社会保険からはずれたりすると、確かに急速に世の中から置いていかれるような、心細い気持ちになるものである。しかも請求だけは確実にやってくる。無論承知はしているが、やはり預貯金から支払うというのは、実に寂しいものである。なるほどこれが浪人というものであろう。

師走浪人という言葉があるらしい。師走になると皆忙しく走り回り、浪人のことなどかまっていられなくなる。それ故に浪人は師走になると、一層みすぼらしくなるのだという。なるほどと思った。

師走になり、14日が訪れると、果たして浪人の足は討ち入り会に向かうのであった。

「小嶋屋」に着いたが、看板が出ているわけではない。それはそうであろう。なにしろ討ち入りの密会なのであるから。しかも今年は、討ち入りから300年目である。何かあるかもしれないという期待が高まった。

のれんをくぐってまっすぐに階段を上ると、奥まった部屋にそれらしい人影があった。

怪しげな髭をたくわえ、陽気に語っているのは、大積の造り酒屋のオヤジである。この会の酒は、このオヤジが全て持ち込んだもので、こだわりの酒なのだという。

さらに、来たものからゆるゆると始めるのがこの会の流儀だということであるから、無言も「吟醸、米百表」を杯に注いでもらって、あおった。

近くで、「これはいい ! キレがすばらしい ! よくできましたね」などと、さも酒通気取りで講釈を垂れている男がいた。見ると、元長岡藩筆頭評定方である。

間もなく開会が告げられ、この会の最初の時からのメンバーだという男が立ちあがって挨拶した。

聞けば、この会はもう27年間も続いているのだという。してみるとこの血色のいい初老の男が、まだまだ青年の頃から続いていることになる。おいおい27年間も酒を飲んでいたら、大石内蔵助も死んでしまうではないか。

続いて立ち上がった背の高い男は、長岡藩主である。藩主自らが城下の蕎麦屋で、お忍びで飲んで、いったいどこに討ち入るというのだ。

挨拶は、瓦版書き、私塾教授方、大工棟梁、図面師などと、次から次へと続いた。しかし浪人は一人もいない。討ち入る話は出ない。

無言の番になったが、世話人は何も言わない。浪人はしゃべるなということか。しかし今日は浪人の日ではないのか。

半升どっくりが廻り、鴨鍋に火が入り、座は入り乱れて盛り上がり始めた。やがて、店自慢の「へぎそば」が並べられ、存分に飲んで食った男たちは、三々五々と師走の町へと消えていった。

どうやら今年も討ち入りはなさそうである。

 

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