無言は死んだ。
と噂された。1月以来、4ヶ月にわたりホームページの更新が止まってしまったからである。
この間何があったか。一言でいうならば、越州仙人・清澄房無言は下界に降りたのである。
2月に無言は仙人暮らしに終止符をうって、会社に就職した。この大不況時代に、堂々たる中年である無言に、どういう風の吹き回しか、声がかかった。ありがたいことである。
時代の激変を、清澄房の中から垣間見ながら、森の時計とともに生きてきた無言であったが、仕事は正反対ともいうべきものである。情報化とい時代の本流の中にあって、ケーブルテレビとインターネットを提供して、地域の情報化を推進する仕事である。
無言の師匠である倉本聡氏は、「さらばテレビジョン」というセリフを残して、テレビ局を去り、北海道富良野に移って、「北の国から」を完結したが、無言は今さらテレビジョンなのである。
しかしこれも時代の風というものであろう。時代に逆らわずに生きるというのも無言の生き方である。
3月になって、長岡市内に居を移した。昔は栄えたという古い町の一角に、建坪15坪あまりの小さな庵を建てた。ここを、「越州清澄房長岡別庵」と号して、住処とした。
建蔽率60%の結果、残る余地にわずかな土と緑を残し、一室だけにログハウス風の趣を残し、「赤松房」と号した。これが清澄房の名残の全てである。
4月になって、引越しのドサクサもようやく終わった頃、プロバイダーを変更した。これがまた煩わしいものであった。
5月になって4坪あまりの土地を整備して、緑地化を進めた。第二次世界大戦の空襲で焼けて以来、50年あまりにわたって家の土台になっていた土地であるから、雨が振れば見事にぬかるみ、池ができるありさまであったが、掘り返して石ころを拾い、花壇を作って客土をした。
目隠しの意味で、シンボルツリーを置くことにし、シャラの木(夏椿)を植えた。相方として、紅マンサクを添えた。シャラのみずみずしい緑と、紅マンサクのローズ色の取り合わせは、なかなかに美しいものである。来年にはきっと形になるだろう。
花壇は真澄ママのお好みで、カスミソウやら勿忘草やら、ラベンダー、パンジーが植えられている。細かい花が好きだというのがよくわかる取り合わせである。
他に特徴的なのは、カブトムシの養殖場があり、カメ池があることである。さらには、水溜りを利用して、ミニミニ・ビオトープをも計画中である。
おそらく来年には、清澄房らしさの感じられるフロントスペースになるであろう。
いうまでもなく、日本の庭はお座敷から眺めるように出来ている。そして、外には塀や生垣をめぐらして見えないようになっているものである。
一方欧米では、外から眺めるように出来ているという。通を歩くと両脇の家と庭が、景色として楽しめるようになっている。これはパブリックを優先する思想の現れだという。
ついでながら、日本では家の中のゴミを外に捨てる人が多いとも言う。困ったものである。なにも西洋かぶれするつもりは毛頭ないが、この点では少なくとも、日本的なものを否定したい気分である。
「美しい環境の中に潜む」
言うまでもないことだが、無言の思想である。