14. 中越地震・スマトラ沖巨大地震そして新年

─ 忘れた頃に襲う! まさかの中越大震災 ─

◆ 天災は忘れたころにやってくる

写真/中越地震・3人の家族を埋めた崩落現場
    
 いきなり、突然の、天地の動顛が新潟県中越一帯を襲った。その日、新潟県中越地方は終日続いた秋の晴天も穏やかに暮れかかった10月23日,土曜日午後5時56分予期もせず一瞬,ダダッ、ダダッというようなうなりとともに家が上下に揺れ、次にグラッ、グラッと南北に大きく激しく揺れ動かされた。家がつぶされると思った。かなり長い時間に思えた。家から飛び出す余裕はなかった。。
 とっさには、何が起こったのか判然としなかったが、すぐ大地震が発生したことを理解した。その後も動悸の静まらないまだ10分も経たないうちに再び、前以上と思われる余震が襲ってきた。後は取る物もとりあえず全家うちで外へ飛び出した。隣近所、皆路上に飛び出していた。
 以来、余震が次から次へと襲ってきて、死者40人、重軽傷者2,900余人、全壊・半壊家屋3,300余棟、新幹線を含む交通途絶、遮断多数と大変な事態。いわゆる新潟県中越地震の発生の瞬間であった。
 新潟県を襲った地震では、最近では昭和36年の長岡古正寺地震、昭和39年の新潟地震が記憶にある程度、それから既に40年も経過、すっかり地震の恐怖感が忘れ去られて久しかった。まさに「天災は忘れたころにやってくる」であった。
 未曾有の災害となった。避難世帯は10万余を超え、倒壊家屋、山崩れ、山村の孤立、道路崩壊・寸断とあらゆる被害が集中した。  豪雨、水害、台風、と続いた日本列島の一年にとどめをさすがごとき天災であった。

◆ 追い討ちはスマトラ沖の巨大地震と大津波

 その後二ヶ月は、余震の連続。全村避難の山古志村をはじめ、町村、山間地いたるところに避難生活を余儀なくされ、全国各地からのボランテアや自衛隊に助けられどうにか命を長らえ落ち着きを取り戻しはじめた矢先の12月の26日、今度はスマトラ沖巨大地震と大津波のニユースが飛び込んできた。一瞬にして死者15万余、想像を絶する大災害となってしまった。
 日本では、夏の豪雨と酷暑の異状気象、台風が春から上陸、秋への連続襲来と大水害、そして中越地震の発生と2004年は大災害の年として記録に残ると思われる。そこにとどめの巨大地震と津波の災難で地球規模の天変地異の年となってしまった。

◆ 災難のり越え、2005年を迎える

 中越地震から二ケ月余りが経過した。今は'05年の新しい年を迎えた。避難生活者も多くは自宅生活に戻った。仮設暮らしを余儀なくさせられた多くの人たちも狭い住宅ながら、ひとまず落ち着きをとりもどしたようだ。
 将来の不安をかかえながらも、2005年の年が明けた。今年こそ、昨年の天災被災列島の汚名をすすぐ明るい一年であってほしい。  そんななか、年明け早々から中越地方は大雪がみまって、豪雪の被災山間地は2メートルを越す積雪となってしまった。積雪による家屋の倒壊もニュースで伝えられている。これ以上の被害の追い討ちはあまりにも深刻だ。被害を最小限にくいとめ、一刻も早いあったかい春の到来を祈るばかりだ。そして雪消えのふるさとに戻って、復興のつち音を響かせてほしい。

◆ 被災地、越後人の一断面

 地震による避難者は一時10万人を超え、近くの小中高校はじめ、コミユニテイセンター、保育園などあらゆる公的施設が避難所となった。そしてそこに全国から暖かい救援物資が送り届けられ、また多くのボランテアがかけつけ救援の手がさしのべられていた。地元でそれを目の当たりにして、日本人の助け合い精神の深さとボランテア精神強さにあらためて感激したところである。
  
写真/中越地震・長岡操車場跡に建つ仮設住宅
    
 避難所を訪れてみれば、多くの被災者は着のみ一つでかけつけ、寒い体育館に薄い毛布の敷物と掛け物だけでじっとガマンの生活に耐えている姿でした。そんな中でとりわけ感じたことは、じっとがまんの中に、一人ひとりの心のなかに他への「感謝の気持ち」、他へ「迷惑をかけてすまない」との気持ちが秘められているのを禁じ得ませんでした。
 多くのマスコミ報道でももそんな光景を多く目にして、やっぱり越後人だなあ〜とひとり納得していたのは自分の思いすごしだっただろうか。たとえ大きな被害を被ったとしても、手をのべてくれた人への感謝の念を忘れていないことで心が救われる思いだった。
 また、避難所への入所や仮設住宅への入居に際しても、隣近所の集落ごとまとまって生活できるようにと細かい配慮もなされていたことに、越後人の人とのつながりの強さ、人情味の深さが感じられうれしかった。

◆ 阪神・淡路大震災から丸10年、中越地震復興元年に

 中越地震の年が明け、やがて1月17日がやってくる。あの阪神・淡路大震災から丁度10年、区切りの年である。中越地震もなにか因縁めいた感がする。6千余人の犠牲者があり、巨大都市をメチャメチャにした未曾有の災害から10年、いま神戸は見事に復興を遂げた。
 今度の中越地震で、神戸及びその周辺から多くのボランテアが参加しているのをあちこちの避難所でみることがあった。あの地震で受けたボランテア精神が受け継がれた賜物であろう。それらがきっかけでボランテアの芽が全国に広がり、今度の地震で全国的なボランテアへの大規模展開となったものと思われる。昨年の7.13水害でも多くのボランテア救援の手があった。一連の展開が重なって無欲の救援の環が拡がることは、人社会にとって尊いことではないだろうか。
 これに勇気づけられて被災者自身も復興に立ち上がっていただきたい。越後人の反骨とねばりに期待する。
 反面、ボランテアに任せきって国や行政が手を抜くことがあってはならない。ボランテアはあくまでも個人の犠牲、あるいは本人の自主性からの実践であろうからである。
 被災地はいづれも有数の豪雪地である。今は深い雪。一日も早い雪溶けをまっての復興を願うばかりだ。

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