1983年の「10年後の予測」
経済学を知ろうとする人たちは、多くの場合、将来の経済の動向をを知りたいと考えているようです。しかしそれが非常に困難であり、ほとんど当たらないということは、日常の政府の景気見通しを聞いているとよくわかります。
政府の予測は多くの場合、政権担当者としての意図や希望的観測によってゆがめられているというのは、多くの人々の指摘する通りでしょう。
一方民間のエコノミストはどうかというと、これまたビジネスが絡んでいるために、ゆがめられているようです。例えば株価の予測では、証券会社のシンクタンクが常に高い上昇予測を出しますし、経済成長予測では特殊法人の国民経済センターが高い予測を出すことが知られています。
そういう現実があるために、将来を予測するといっても政府系のものはどこまで信憑性があるのか疑わしくなるのか本音です。
ところが、とにかく中立で精度の高い予測を出そうととして、研究したグループの書いた本が手元にありましたので、約20年後になる最近ながめてみました。
このグループは、グループST(ソフトテクノロジー)といい、邦光史郎氏を代表とするグループです。コンピューター等のハードに頼った予測は、数字のデータにふりまわされてしまい、予測の精度に欠けるということで、人間の直観力や判断力を重視するという意味でソフトテクノロジーと命名したそうです。
この本「十年後 これから何が起きるのか」は、1983年の正月に出版され話題になりました。そのため急遽続編も出されましたが、よくあることですが、続編は駄作だったようです。
さて、内容に入る前に、時代背景を説明しておきます。
1979年に第2次オイルショックがあり、狂乱物価を恐れた政府は徹底的な金融引締めによってこれを回避しました。しかしそれは、景気の停滞を招きます。この頃は人々の脳裏にまだ高度成長が焼きついており、1973年の第1次オイルショック以降顕著になった低成長時代に対する準備がまだできていなかったといえるでしょう。
日本の戦後の制度の多くは、高度成長期にできたものであり、構造的な矛盾が指摘され始めた時期と考えてよいと思います。そんな閉塞感の中に、予測本が多く出版されました。
その後1985年のプラザ合意による円高誘導により、バブルが発生しましたので、その予測は見事なまでにはずれてしまいます。もっともバブルは発生したのではなく、発生させて構造的矛盾を解決させようという意図がはたらいていたことは疑う余地がありません。よく言われることですが、時の大蔵省が財政改革のためにバブルの進展を容認したのです。
まぁ、その後の展開は、「バブルの再検証」を読んでください。
ともかく、誰も予測しなかったバブルの発生によって、10年後の1993年には、予測はほとんどはずれたのですが、20年後の今日になって多くが甦ってきました。
書かれている内容のうち、冒頭の「大きな潮流」をとりあげてみます。
「米ソの歴史的和解により、日本が経済戦争の敵国として浮上する」
「日本には食糧危機が訪れ、経済戦争の舞台はハイテクノロジーの分野に移る」
「その一方で、老荘思想が広がり、生活技術はむしろ退化する」
「日本の反映を支えたビジネスマンは高齢化し、繁栄しか知しらない世代の台頭で、新しい時代が始まる。長男長女時代、少子時代の到来は、ビジネスマンの人間形成が問題となり、人材不足が露呈する。自己中心型のビジネスマンが増え、集団社会が崩壊し、日本型の強みが消えて、ノイローゼや自殺が増え、精神も「縮みの時代」を迎える」
どうでしよう。恐るべき透視力と言うべきではないでしょうか。
続いて各論の中から抜書きです。
「スラム化が進むマンション」
「東京がニューヨーク並みの犯罪先端都市になる」
「かぜや腹痛は健保の対象外に」
「介護人つき老人保険の発売」
「結婚しない男女の激増、中高生の性が社会問題化」
「総合商社の没落、銀行は半減する」
「終身雇用制の崩壊と年棒制の普及、早期退職制の普及と定年時の退職金の廃止、ムーンライトジョブの普及で多社籍・複属型人間の活躍、人材派遣の普及」
いかがでしょう。もちろんこれだけではなく、ニュービジネスについてはまだ絵空事のものが多いのですが、かなりのリアリティを感じられると思います。
例えば「マンションのスラム化」ですが、84年以降に立てた人や購入した人たちはどう考えたものでしょうか。マンションの転売は築10年を越えると困難になり、叩き売りのものを低所得者が購入するが、築30年で立て替え問題が浮上し、住人の意見がまとまることはなく、所得のある人たちは退去して、スラム化が進展する、というものです。バブルの崩壊後に正しく起こっていることです。しかも金額が大きいため、身動きがとれなくなっている人が多いのです。建設会社や不動産屋、銀行にのせられて今日を迎えた人たちが、当時よく考えたのかどうか、考えさせられてしまいます。
さて、今日こんなに当たっていると感じるのは、決して偶然ではないはずです。当時すでにその傾向が現れていたはずなのです。しかし国の制度改革がそうであるように、「自分の都合の悪いものは見なかったことにする」の法則がはたらいて、「いつか神風が吹く」という他力本願にすがったものでしょう。その結果がバブルであり、崩壊後10年たってようやく構造改革が市民権を得たのです。しかしその間に、国債などのの発行高は600兆円を越えてしまったのです。
こうしてみると、やはり将来予測というものは、短期的には可能だが、中期的には変数が入ることによって全く不可能になり、長期的にはおよその傾向が読めるということでしょう。
さて、今後の10年はどうなるのでしょう。1年後の自分さえも全くわからない私としては、全く予想することは不能ですが、「ブリリアント・フィフティーズ・プラン」の完成を夢見て行きたいと考えています。