長工大賞


第8回 令和4年

創立120周年


金子正元

(S33E)

 昭和42(1967)年3月に株式会社キンセイ産業を設立。当時、新たに制定された
「廃棄物処理法」を起点として、地球にやさしい環境機器の開発に取り組まれまし
た。 事業の推進に当たり「現場に課題解決の知恵あり」を基底に「夢をかたちに声
を技術に」をモットーとして、顧客ニーズに応える企業理念を確立されました。製品開
発は、新しい科学技術との戦いの連続でしたが『資源の少ない国だから技術で海を
渡れ』の金言を下さった盛田英治校長先生に感謝しながら人生を歩まれました。

 今「気候変動」に伴い、地球温暖化に対応するSDGsの取り組みが盛んな状況に
あります。人間社会の営みから発生する廃棄物を『乾溜ガス化燃焼システム』による
処理法が、世界各地で高い評価を得ております。エビデンスに基づく特許取得に至
るまでの開発投資と技術革新への対応など、創造を絶する「峠越え」は好奇心旺盛
なあなたのリーダーシップによって実現されました。

 その功績は、あなたの公職履歴の足跡並びに国・群馬県・各種団体から多く評価さ
れました。

稲田育彦

(S34W)

 高度経済成長期の繊維産業を経験されるとともに、その後の構造改善事業の荒波を乗り越えて栃尾ニット株式会社の代表取締役社長に就任されました。人間が生存する限り「繊維産業」は変革しつづけることを信念に持ち「技能・技術」の進化・発展に邁進されました。また、栃尾の繊維産業を守るため栃尾織物工業協同組合の理事長として活躍されました。栃尾出身の外山脩造翁を顕彰する『外山脩造賞』を授与されるなど産業経済界の地域リーダーとして全身全霊の尽力を重ねて来られました。  さらに、地域中小企業者のリーダーとして栃尾商工会長に就任され行政と一体となった地域づくりに奔走されました。重ねて長岡地域商工会連合会会長に就任、人柄の良さと芯の強い柔らかなリーダーシップを発揮され、多くの皆さんから信頼・敬愛される人格識見を備え地元に根ざしたリーダーのロールモデルであります。

小林敏夫

(S37MT)

 日夜「ものづくり」に対する職能意識と力強い起業家精神から昭和48(1973)年に独立開業されました。以後、日本社会の生活基盤を支える電化の波と技術革新の進化を真正面から取り組まれ「高低圧受電・配電盤」を中心とする制御盤の企画・設計・施工に至るトータルな配電盤製造システムを構築されてきました。

 その間、電気業界の成長発展に伴う技能技術の高度化に伴い人材の確保並びに育成に心血を注がれて長岡技科大との「産学連携事業」に取り組まれると共に、安心安全な「製品開発」に努められました。その結果、電気事業者・建設業者登録はじめJSIA優良工場認定を得られるなど業界における不動の地位を確立されました。

 このことは、「心技体」の言霊を実践・実学を通して、企業経営にあたられた企業家精神のロールモデルであります。

山岸良三

(S37W)

 繊維産地:十日町市の企業で研修されたのち家業に従事され、昭和30(1955)年に国の重要無形文化財に指定された『小千谷縮』の歴史と文化と奥深い技能・技術に惚れ込み、以来、伝統工芸の研鑽を重ねられ、伝統工芸士として、小千谷縮の保存・工芸品の産業化に取り組まれました。その後、平成21(2009)年には、ユネスコの無形文化遺産(日本の染織技術)として登録され世界的にも注目を集めています。十七世紀に越後縮として誕生した「縮」を越後上布・小千谷織布技術保存協会の活動を通して伝統を次世代に繋ぎ遺してゆくプロジェクトに取り組まれておられます。「  縮」のデザイン・技術と日本文化の誇りを後世に継承するロールモデルであります。また、母校創立110周年記念碑「蛍と平和 匠の世界」の建立を実現され内外からの見学者の訪問は持続的な平和教育の「場」であります。

川澄 昂

(S38e)

 人生の「夢と希望」に誘われ、ふるさとを離れ首都圏で日々活躍されました。そのような中で、長岡工業高等学校同窓会東京支部との出会いに始まり同郷・同窓をネットワーク化して高齢社会の中で元気な活動を展開する「活性化プロジェクト」を東京支部に提案されました。

 「長工らしい理論」と実践活動を自ら率先し価値観を共有できる同好会の活動が効果的であることから、「山の会」「コーラスの会」等を創設し、リーダーとして東京支部の活性化・隆盛に努められました。特に「山の会」では有志(佐野太、櫻井明、阪西保、星富夫、勝沼正敏)を募り東日本大震災で甚大な被災を受けた南相馬市ヘ、復旧復興のボランティアを行う等、社会奉仕活動も実践されました。東日本大震災10年の節目、令和3(2021)年には、南相馬市から感謝状が授与されました。

 長工OBとしてボランティア活動を通して社会への恩返しの行動力は、同窓会の名声を高め「小さくとも光り輝く」他に類を見ない功績であります。

井口 公

(S42C)

 地元企業に就職されましたが「描いた人生の夢」を実現するため、未来のコンピューター社会に挑戦し専門学校及び大学を苦学のうえ卒業されました。その後、ソフトウェア企業の現場経験を積み起業への道のりを紆余曲折しながら目標とする階段を全て起業の糧に「大塊に生きる動物」の特性を指針として、想定通り38歳に「起業」を実現されました。また、常にレジリエンス経営を目指し自己研鑽を怠らず、世界目線から新しい社会構造を見極める経営理念は新時代に必須なものであります。描いた「人生の夢」は、人材育成分野を重要視した新しい「教育産業」を拓く幅広い柔軟なビジョンを持って時代のニーズに応えて来られました。

 そして、人間の多様性に応える「各種専門学校、通信制高校、日本語学校」など、あなたが開校されたエイシンカレッジグループは、個性豊かな人間力を持った人材育成を持続されています。さらに、少子高齢社会に対応した総合福祉事業への取り組みは、教育と現場を連携する先駆的なソーシャルビジネスであり「道徳経済合一」を重んじた経営姿勢であります。

野ア敬策

(S46e)

 松下電器産業梶i現パナソニック梶jに就職され、日本の自動車産業の発展と高速交通体系が整備される中で高速道路のETC(自動料金収受システム)を始めとする交通管制、道路情報管理システムの発明、開発・実用化に従事され、平成8(1996)年には同社のETC開発の総責任者「ETC特別プロジェクト室長」に就任され幅の広い活躍をされました。その企画開発は、日本が世界の産業界と互角に戦うための産業インフラの整備であり人間社会の豊かさを求める時代背景と重なります。

 開発されたETCシステムは社会的に認知され、新たな可能性を帯び「新技術・新商品」として進化・発展しています。さらに、発明技術の延長線上には「ITS」が大きく夢開く時代となりました。長岡工業高等高校で学んだ知識を基底として、最先端、高度な専門知識・技術を修得され、その知見が社会課題の解決に大きく貢献されたことは正に長工生の誉れであり、後進へのロールモデルであります。

品田 隆

(S51M)

 高校3年生の時、地元(長岡市)を走っていたチンチン電車(栃尾鉄道)が廃線になることを知り、その最後、勇姿を撮ろうと、友人に手伝ってもらい家の8oフィルムカメラで栃尾鉄道廃線ドキュメンタリーを制作されました。長工祭で上映し観てもらった経験をきっかけとしてドキュメンタリーを作りたい「夢・希望」を実現するため『大阪芸術大学』をめざし見事に合格されました。大学生活を謳歌しながらも「映像の世界」に憧れ惹かれて研鑽され、就職先は電通映画社に決まりました。

 CM制作は、大手家電メーカー、大手食品メーカーなど、いろいろな  CM制作に携わり「映像・演出」など多くのイノベーションを研鑽されました。現場での交遊がご縁で立命館大学映像研究科に転職され、次代を担う「後進育成」の立場に大きく人生を変えられました。人生のターニングポイントが、青春真っ只中の18歳の時に到来し、当時、映像分野は感性豊な最先端であり自由表現の先駆的な存在でした。

 その人生航路は、在校生にとって「人生の希望」を構築するためのロールモデルであります。

佐藤守人

(S52E)

 希望に燃えて日本精機株式会社に就職されました。日本精機株式会社は、日本の自動車産業の成長発展と併行し「技能・技術」の進化はもとより、新素材・新技術を駆使しながらスピードメーターの開発「度量衡の世界」に挑戦され続け長岡が世界に誇る「ものづくり企業」として上場されました。

 日本精機株式会社の進化と共に「製造・生産技術部門」の現場で、品質向上に日夜研鑽を重ねられ社業の成長・発展に尽力されました。また、海外子会社の経営に携わるなど国際感覚を身につけられ国際企業のリーダーとして豊富な経験と実績を重ねられました。それらの実績が高く評価され平成19(2007)年6月取締役、その後、専務執行役員に就任され、多くの同窓生が在籍する日本精機株式会社の代表取締役社長に就任されました。

 このことは、先輩並びに後輩の誇りとするところであり、ものづくりに対する造詣の深い経験・知見は、長岡ものづくり産業の事績として揺るぎないものであります。

高野克広

(S63E)

 長岡工業高等学校3年生の夏休み(昭和62年8月)に、幼少期から参加していた「悠久太鼓チーム」のメンバーとして長岡市の姉妹都市候補地であった米国テキサス州フォートワース市との交流促進プログラムに参加され、広大なテキサスの風土と市民性に感嘆し、昭和63年5月に渡米、ダラス市のShinagawa incにお世話になりながらダラスでの生活は大学並びに観光ガイド・通訳など広く国際交流の機会に恵まれました。帰国後は、長岡市国際交流協会に所属し専務理事として、多くの姉妹都市との交流事業に参画・活躍されました。また、姉妹都市ホノルルとの文化交流を促進するため「長岡大花火大会」をホノルルで打ち上げる緒手続きを「ありとあらゆる人脈」を駆使して実現に尽力されました。

 また、平成16(2004)年の「中越大震災」では、山古志村の牛舎から『牛を救いたい一心」で、自身の持つ特技であるヘリコブターの空輸計画を発案し山古志村から「牛」をピストン空輸し『生命の大切さ』を実証する大きなドラマが全国的に話題となりました。

 このことは、人間尊重「生命尊重」の時代の中で素晴らしい実践のモデルです。その志は、子供心から始まった「悠久太鼓」の音にはじまり「国際交流」の人間の輪につながる「蛍と平和」「匠の世界」を実践されました。

佐々木啓之

(H01e)

 新潟三洋小千谷工場に勤務、小学校1年生からの「夢」を実現するため、24歳でスピードレーサーに転身デビューされ、28歳でF4シリーズチャンピョンを獲得。上位ランクを目指す莫大な資金スポンサー獲得の困難さからやむなく撤退。その後、営業マンとして苦労し家にいながら稼ぐには『インターネットしかない!』と気づき、猛勉強を重ね知恵を絞りネットビジネスに挑戦するため「株式会社ピカイチ」を平成21(2009)年起業されました。若者を対象としたスキンケアを核とするEC通販事業のオンリーワン企業を目指し「信頼」を基底としたレジリエンスな経営を実践されています。

 ふるさと長岡への恩返しは「大花火協賛」と決め、要望を重ね公式スポンサーに採用されました。本年は、同窓会とのコラボレーション花火の実現に理解・支援を賜りました。若くして七転び八起きの人生経験は、後輩のアントプレナーモデルとして高く評価されます。

早川起生

(R02m)

 12歳から自転車競技:BMXフラットランドの美しさ・力強さ・スピード感に魅了され心底・熱中感動し練習を積み重ね、長岡工業高等学校3年生のときに2019年横須賀市で開催された「BMX世界大会」で優勝。SNS交流していた憧れのオーストラリアの「プロライダー、サイモン・オブライエンさん」と初対面の感動と共に「BMXに点火」BMXプロライダーとしてデビューされました。そして、国際大会「Xゲーム千葉2022」優勝など、国内外での活躍が評価されて、BMX界最高峰MVP「NORA CUP(ノラカップ)」を2年連続で受賞されました。

 当初は、指導者がいないため、練習はインターネット上の動画を見て独学、倉庫で練習を重ねることができる環境が自分を大きくしてくれたと言います。

 東京2020オリンピック閉会式には『BMXパフォーマンス』として出演されるなどBMX普及活動にも熱心に取り組まれております。フラットランドは、感性豊かで芸術性の高い競技で世界の若者からは、ニュースポーツとして脚光を浴びています。

 あなたが世界の最先端で活躍することは、長岡工業高等学校の後輩たちには自分の人生「やりたいことをやる」お手本を示してくれました。『転機は、長岡工業校高等学校3年の時だった』『プロとして「誰もやっていない技を成功させ、もっと驚かせたい」』『感謝と尊敬を常に心に』などインタビューの言霊の美しさは「だんご三兄弟」の兄弟愛から生まれるものと信じます。

丸山拓郎

(e3年)

小川謙信

(e3年)

 新潟県立長岡工業高等学校に入学し、長工の歴史と伝統を感じつつ勉学に励むと共に、社会生活の基盤インフラとして定着する「ロボット」の魅力に取り憑かれ多様なロボット技術の中でも「ロボットソフト組込職種」に着目し、その創発に日夜研鑽されました。そのゴールを目指した第17回若年者ものづくり競技大会においてイマジネーションから独創的な発想に基づく技術・技能が評価され「敢闘賞」を受賞されました。その結果、第60回技能五輪全国大会の参加パスポートを掴むことが出来ました。

 そして「大河信濃川から世界」を目指し、高校生最後のエネルギーを傾注し準備をされました。大会会場のプレッシャーを感じながらも最大の「智恵・体力」を発出し必死の戦いに挑まれました。その目標を達成することは叶いませんでしたが、そのプロセスは何ものにも代え難い「経験・実績」であり、君たちの人生の『レジリエンス』として心身に刻まれたものと確信します。

 その心は、長工フロンティアスピリットであります。